アラムナイ・ストーリーズ第14回 – 山口尚登さん
山口尚登さんはICUで物理を専攻し、2001年に卒業しました。現在はニューメキシコ州在住で、ロスアラモス国立研究所で研究に従事しています。山口さんのプロフィールはこちら、そして昨年のR&D 100 Award受賞に関する記事はこちらです。山口さんの「アラムナイ・ストーリー」をお楽しみください。(写真はすべて山口さん提供。)
私がICUで得たものは二つあります。一つは多様性の中で自分を活かす感覚、そしてもう一つは人生を通して付き合える友人たちです。私は現在、材料科学者として米国ロスアラモス国立研究所で勤務しています。本稿では私が現職を得るまでの経緯等を、ICUとの関連性を具体的に挙げながら紹介させて頂ければと思います。ICUへの入学を検討している方々への参考に、また、少しでもICUに興味を持って頂く方が増えるきっかけになれば幸いです。
まずはICUをなぜ受験したかです。私は日本の公立高校に通ったのですが、その画一的な授業スタイルに全く関心が持てませんでした。先生も生徒も授業内容に本質的な関心があるとはとても感じられなかったのです。そこで、授業以外でエネルギーを発散していました。具体的には、軟式テニス部しかなかったのに硬式テニス部の創部に丸3年間を費やしたり、文部科学省主催のエッセイコンテストに応募して入賞したりです。そのような感じでしたから、日本の画一的な教育スタイルから逸脱しているICUを受験するという選択は自然な流れだったと記憶しています。
ICUでは高校で感じていたような違和感は無く、入学当初から馴染めました。自分のスタンスを持ち、いわゆる社会の型にはまらない自由な学生が多かった上に、一学年700人という少人数制も良かったのかもしれません。中学生の頃には既に科学者になりたいと思っていたので、ICUでは物理学の研究に没頭しました。具体的には、通常は4年生から始める研究実験を3年生の初めから本格的に開始し、朝9時に登校して、授業と部活の無い時間は研究実験に費やし、毎日深夜2時頃まで研究室にいて、翌日朝9時に眠い目を擦りながら登校するスケジュールを繰り返していました。当然、平日、休日の感覚はありません。そんな生活も研究室の仲間と過ごしていれば辛いと感じたことはありませんでした。部活はフライングディスクをしていました。当時は競技に必要な部員数がギリギリいるかいないかのチームでしたが、暇さえあれば本館前の芝生/バカ山でフリスビーを投げていました。アルティメット・フリスビーは現在、ロスアラモスでも続けていて、標高2,200mの酸素濃度が希薄な中、ぜいぜい言いながらフリスビーを追いかけています。こんな山奥にも拘らず、自分が学生だったときより、チームメンバーの数と技量に恵まれていて、なんだか不思議な気分です。
学業と部活以外では、第一男子寮で非常に濃い時間を過ごしました。父親が大学で寮に入っていたこともあってか、ICUに入学する条件はとりあえず寮に入ることでした。寮では四六時中、寮生と一緒にいる上に、年間を通して常に寮行事に追われ、寮での時間は勉学どころではありませんでした。しかも、多様性に富んだ寮生の共同生活は規律や計画性といったものとは程遠く、カオスの中で生き抜く感覚はこのときに身に付いたような気がします。当時一緒に寮で住んでいた人たちのいまの進路を挙げると、テレビプロデューサー、コンサルタント、銀行員、公認会計士、芸術家、作家、編集者、中東文化やインド哲学の大学教員、ツアーガイド、南スーダンやパレスチナで10年近くNGO職員等をしたのちに外務省職員、文部科学省職員、県庁職員、大学職員、化学の大学教員等、多岐に渡り、今考えれば当然規律など生まれようはずがないことが理解できます。と同時に、これだけ多様な方向を向いている人達と一緒に生活をする機会はその前にも後にもなく、当時は何のためになるのか分からなかった寮生活もいまでは何にも代えがたい財産です。
さて、日本で博士号取得後に渡米したのですが、その際の進路決定にICUの繋がりが非常に重要な役割を果たしました。ICUで私が修士課程の学生の時に同じ研究室の後輩だった江田剛輝さんが当時、米国ラトガーズ大学で博士課程の学生をしており、私を推してくれた関係でその研究室に入れてもらえることになりました。研究内容はグラフェンという炭素の単層材料に関してで、2004年に発見され、わずか6年後の2010年に発見者がノーベル賞物理学受賞するという非常に注目された材料でした。このときのグラフェンとの出会いがその後の私の研究人生を大きく変えました。また、研究対象もさることながら、そのときの研究室の教員が非常に優秀で、当時はまだ駆け出しのAssistant Professorだったのですが、いまや英国ケンブリッジ大学の教授になり、世界レベルの研究競争で生き延びるためのイロハを彼から学びました。なお、江田さんはグラフェン研究の世界では名を馳せた若手研究者に成長し、シンガポールの国家戦略として設けられた5年間で2億円相当以上という破格の研究費を獲得して大学教員となった後に、いまもなお活躍を続けています。
また、渡米後に日本学術振興会の奨学金に応募したときは、寮で一つ先輩だった山本達さんにアドバイスを頂き、無事採用されました。山本さんは東京大学の大学院で博士号を取得後、日本学術振興会の奨学金で米国スタンフォード大学にて研究されました。先日、兵庫にある研究施設SPring-8で実験した際に、当時助教として働いておられたことから、ICU卒業以来20年以上振りにお会いでき、一緒に食事をしました。現在は東北大学の准教授になられ、私の長年の共同研究者である東北大学の先生方とも関わりがあるようで、今後、会う機会が増えそうです。
現在の勤務先についても少し書きたいと思います。ロスアラモス国立研究所は職員1万人を擁する大きな機関で、研究内容も、HIVウイルスやバイオセンサーなど生物系、大気汚染や土壌汚染など環境系、ナノテクノロジーや磁気材料等の最先端材料系、合金や金属の機械的強度や劣化過程に関する応用材料系、核物理や核材料、衛星軌道や火星探査機開発の宇宙系、そして粒子加速器施設の要素技術など実に多岐にわたります。その中で、材料科学者である私はあらゆる部署の材料科学系の問題解決に関わっています。上記のような多岐な研究分野を擁する研究所で生きていく感覚は、ICUで寮や部活、また英語の授業や一般教養の授業で関わった多様性に富んだ学生と関わった感覚と非常に似ていて、私のルーツはそのときの経験にあると感じることが良くあります。具体例を一つ挙げると、以下のようになります。私はグラフェンという材料の専門家として、8年ほど前から粒子加速器施設の要素技術の開発を率いているのですが、この分野の研究には物理学、化学、電気工学、材料科学等、多岐の専門分野の研究者が協力する必要があり、その協力の度合いがプロジェクトの成功を左右するといっても過言ではありません。ところが、それぞれの研究者は専門用語、科学概念など専門性における違いに加え、国籍による文化の違い、さらには物柔らかさ、期日に関する時間的観念など性格の違いをもち、このような人たちと一つの目的に向かって締め切りまでに成果を得るというのは至難の業です。しかし、ICUのカオスの中で過ごした経験を有する私は、現在の研究所のカオスの中で自分の役割、そして各チームメンバーの貢献ポイントや性格を比較的早く見極められる感覚があるような気がしています。そのこともあってか、このプロジェクトは昨年暮れに米国の権威ある技術賞を受賞し、米国エネルギー省のホームページで紹介されたり、ロスアラモス研究所所長主催の祝賀会に参加する機会が与えられたりと、貴重な経験をさせてもらっています。
最後にICUの友人についてです。現職に就くまでには紆余曲折があり、研究を諦めようと思ったことも何度もありました。でもその度にICUで知り合った先輩や友人が支えてくれたお蔭で、今があります。具体的には、例えばICUの物理学専攻の同期で学部と修士課程で同じ研究室だった鈴木雄宇さん。彼は、住友商事で車関連の部署に所属し、最近駐在でデトロイト勤務となったので、サンタフェまで会いに来てくれました。この春から、仕事の一部として米国の大学院で情報科学の修士課程に進み、AIについて学んで将来の自動車性能向上に繋げるんだそうです。またフライイングディスク部の同期でチームを存続させた仲間である平野良栄さんは、証券会社のITシステム構築という中枢機能に貢献しながら、日本のトッププロ雀士としても活躍しています。彼も最近駐在でニューヨーク勤務となり、先日は有名なカップケーキ屋のプリンを送ってくれました。先輩では、ICU軽井沢キャンパスで毎年夏におこなわれていた物理学専攻セミナーで知り合った伊藤貴充さんが、マサチューセッツ工科大学で博士号取得後、現在はジョージア工科大学で准教授をされています。研究職を得るのにもがいて苦労していた際に優しい言葉を掛けて頂いたりと、こういうところでもICUの繋がりに支えられています。いうまでもなく、前述の江田剛輝さんや山本達さんも支えてくれました。
以上、あまりまとまりがありませんが、人生を通してICUから得られるものについて、私の具体例から少しでも伝わるものがあればと思います。