アラムナイ・ストーリーズ第16回 – 平林伸一さん
平林伸一さんはICU教養学部を1963年、大学院行政学研究科を1965年に卒業しました。2000年代前半にはICU-AAA(米州同窓会)の会長を務め、最近JICUFの湯浅八郎ソサイエティに入会しました。現在はコネチカット州在住の平林さんにICUでの思い出とその後の人生についてご寄稿いただきました。
ICUでは学部・大学院で6年間在学。田舎出の苦学生で家庭教師や野崎の学習塾でのバイトが週3回。そんな或る日、卒業間近の5期和田貞実先輩から「銀座教会の英会話教室で教えて来たが、君に後任を] と頼まれて一驚、有難くも不安で冷や汗した事でした。寮入らずの通学生で、部活はグリークラブと自動車部。前者では秋の演奏会、D館でのパート練習、軽井沢でのサマー・キャンプ、全て大いに楽しみました。キャンプ中、出身地佐久市の公民館で開いた小演奏会は一生の思い出です。自動車部では本館裏の高く伸びたかやの草地で滅茶苦茶な8の字運転。学部卒業の際、部員全員からの祝辞寄せ書きを頂き、中に”無免許の自動車部員”とあり、バレテタカ。無免許で入部・卒業では部長の8期田口俊明さんに申し訳なく、借りを作っての卒業でした。(そのお返しは約39年後NYで。後述)
在学中、専攻は政治学・社会学から行政学へと進みました。学部2年次から社会学教授の夏季フィールドワーク助手、大学院では社研や慶応大労政研究所の米国人客員教授の助手等を務め、学費支援を頂きました。GSPA卒業後は米国留学を目指し、プリンストン大学院のRockefeller Regional Studies Fellow に任命され、フルブライト渡航費を得て1965年夏渡米、ハワイで1か月のオリエンテーションを経て現地NJ入り。NY迄はタフツ大学に留学する同期の内田孟男君と組んで、西岸からシカゴ・デトロイト周りでした。
3年間のプリンストンでの留学生活は、苦楽色々でしたが、教授・学生・キャンパス何れもさすが一級品で大いに啓発されました。大学院生は毎夕黒ガウン姿での 晩餐会で、これには遂に馴染ず、でした。週末には学部生がフットボールでライバルのイェール大学打倒に向けてYの字を逆さまに書いたプラカードを振って熱狂。そこまでやるか?と感心したものです。
当時の米国は2年前にJ.F.ケネデイ大統領とM.L.キング師の暗殺、3年後にはR.F.ケネディ司法長官の暗殺という暗黒の狭間にあり、政情世相は日々混迷を深めて行きました。そうした中で、クラスワークや学期末レポートではそこそこの評点を貰っても、何か気が晴れません。というのは、ヴェトナム戦争の激化で世界の政経関係が動乱し、肝心の研究主題とした「開発行政と政治近代化」というテーマは、濁流で浮き釣りをする如くで今は追及のタイミングにあらず、と分かってきたからです。然らば、行政学から政治社会学か国際関係へ転向して学究の途を歩き続けるか、他の途に転身するか、思い悩みました。これ迄の私個人の貸借表は負債勘定ばかりで全くのアンバランス状態。ならば、ICU以来私の信条となった「人と社会への感謝報恩」の為には、何処で何をすべきなのか?結論は、頂いて来た多くの支援と期待を思うと心苦しいが、思い切ってアカデミズムを離れ、米国でより実社会に根を下ろした実務専門職への途に進もう、という事でした。
心気一新した私は、「外からの観察よりも中での実践行動」のできる現場体験の先として、先ず米国務省に着目、その通訳試験をパスして文化交流計画に関与、次いで NY日本国総領事館に約2年間在籍し、活発化する日本進出企業の業態を学びました。特に注目したのは米国三井物産トップが地元の財界のみならず、民生諸団体と幅広く交流する姿です。同社のルーツは旧三井物産NY支店の1879年開設。歴代社長は頻繁に日本クラブ会長や商工会議所会頭を勤めており、日本経済の急成長に伴い、地元の米国側財界からも特にマークされていました。こうした背景から、将来の進路は三井物産で、と決意、まずそのNY本店に入社、程なく物産本社職員に身分変更、企画業務配属となりました。ICU同期生の六本昌平・川崎昇・竹部智雄三君に10年遅れの入社です。これではとても追いつけないと思う一方、ならば営業部の背番号は貰わず、米国物産生え抜き社員らしい仕事で精進しよう、とほぞを固めたのでした。
さて、今にして思えば、「挑戦と創造」と「自由闊達」を標傍する三井物産に職を得た事は、私の信条、感謝報恩の実現の上で、最高の幸運でした。米国三井と東京本社間を行き来する勤務でしたが、本社では歴代の社長、会長、相談役、顧問などトップの財界活動と米国・加国・豪州関係対外活動の業務補佐役を務めました。例えば、本店赴任早々、村上達三最高顧問の補佐役として、日米財界人会議を控えたハワイでの合同運営委員会に陪席。次いで橋本栄一会長が日本政府派遣の”訪加経済使節団”の副団長として、バンクーバーからオタワまで3週間をかけて全州の政府・財界要人との会談行脚をした際随行、補佐役を務めました。
NYでは企画業務畑一筋でGMとして最長不倒の7年間勤続、日本経済の急成長に伴う米国対日政策の急速な硬化と貿易摩擦の勃発の中で、商社活動はどうあるべきか、真剣に取り組みました。
米国物産は米国からの輸出実績では全米第5位、米国の貿易収支に年間20~30億ドルの貢献をしている、全米で200社近い事業子会社を持ち、貿易・経済・労働・民生上の地域還元を手厚く実行している等々、積極的にPRしたり、米国輸出力の育成政策に協力して、ワシントンDC始め各州の商務部やビジネス・スクールでのセミナーを開催するなど、幅広く努力しました。
社内では利益計画の取り纏めや米州全域の商内統括、数百件の投融資委員会主宰、数千件の稟議案件を通す等で、会社の損失縮減・利益醸成に向けた裏方仕事で貢献した積りですが、これは信条である感謝報恩ならず。そこで私の目標としたのは、米国三井物産を一流の社会貢献企業に育てる事、その手段になるインフラを作り、経営に携わる、という事でした。既に米国物産は、災害義捐金寄付や日米諸団体の支援などで相当の実績があり、歴代経営トップは営利優先を原則としつつも時流には柔軟に対応する人達です。特に田淵社長がエイボン社のAdvisory Boardメンバーに就任、受けた報酬を「将来の寄附金プールに」と拠出された事が、会社の社会貢献インフラ作りへの私の夢を実現する絶好の機会を与えてくれました。
早速、会社の社会貢献窓口としての「米国三井財団」の設立を提議し1978年実現、1979年実働開始以来、地域各種団体との積極的な交流・支援プランを推進しました。支援分野は教育・福祉を中心に毎年約50件の寄付案件を実行。21州で約100名への大学奨学金供与、4大学で年15回の三井フォーラム開催、全米職員・家族が参加するMarch of Dimes Walk の支援等の継続案件の充実と、従業員寄付のマッチング制度とボランティア活動奨励策の創設、Mercy Homeでの自閉症児童向けクリエーティブ・アーツ・センターの開設、老齢者の月次晩餐会主催、支店や子会社の参加を呼び込んだ各種新案件の開発に努めました。
私は当初から財団の管理運営を担当しましたが、退職までの至近15年間、社長CEO としての経営理念は、財団の寄付は単に会社のgood willの表示ではない、寄付は社会投資であり見返りのROIを求める、という事でした。見返りとは「寄付先学生・団体・事業自体の成功」です。その成功を援け、その成功成就を会社のgood corporate citizenship の証とする事が私の責務であり、それが延いては私の人と社会への感謝報恩に連なる、と考えたものでした。
さて、最後に、前述の田口さんに借りを返した経緯の事ですが …
2001年当時、私は米国三井で財団の経営とResearch & Public Affairs Center所長の兼任で超多忙。田口さんは北米トヨタ自動車の社長業の傍ら、NY本拠のICU-AAA (米州同窓会)の次期会長に決まっていた処、予期せぬ事情のため突然私にお鉢を回して来たのです。その任にあらずと再三固辞したのですが、田口さんは私の上司を説得して搦手からも攻めてく来るに及び、私も遂に降参、会長役をお受けし結局2期4年間務めたのでした。会長として私が目指したのは組織の活性化とJICUFとの緊密な協調による母校の支援推進、という事ですが、詳しくは北米同窓生の皆様宛に発信したJICUF News Letter でのご挨拶(2002年-2004年)で申し上げた通りです。
寄る年波で三井本社、米国物産、その財団から順次引退しましたが、ほぼ40年のlong journeyをNY生え抜きの物産マンとして日米で働けたのは、偏に自分の原点がICU生であったからこそ、と感謝あるのみ。 昨年末、JICUF宛にbequest pledgeを申し上げ、そのご縁で、湯浅八郎ソサエティ会員にして頂きました。望外の事であり、湯浅先生もさぞかしビックリされているのではと思います。有難うございました。