アラムナイ・ストーリーズ第18回 – ジェシカ・コルクさん
ジェシカ・コルクさんは、マサチューセッツ州立大学アムハースト校の学生だった1995年から1996年にかけて、ICUに交換留学しました。1994年にはICUの夏期日本語講座も受講しました。大学卒業後、JETプログラム(日本政府による外国青年招致事業)に参加し、アトランタ日本国総領事館などでの勤務を経て、現在はYKKコーポレーション・オブ・アメリカにて広報渉外室長を務めています。3月上旬にJICUFの「グローバル・アラムナイ・スピーカー・シリーズ」に登壇した際のお話を、現役学生へのアドバイスという形でまとめていただきました。
生涯学習者からのキャリア・アドバイス
大学で日本語を学ぼうと決意したのは、15才のときでした。私が育ったニューハンプシャー州の田舎では、日本に興味を持っている人はおらず、日本語学の学位を取ってどんな仕事ができるのか、検討もつきませんでした。それでも夢を追おうと決めたのです。
人生の折々で学んだ教訓をご紹介しながら、これまでの人生を振り返ってみたいと思います。
恐怖に夢の邪魔をさせない
高校生のときに、日本で8週間ホームステイするチャンスがあることを知り、一目散に帰宅して、両親に行かせて欲しいと頼み込みました。
行けることになり大喜びでしたが、パッキングを始めた途端、恐怖心に襲われました。家族と離れるのも初めてだった上、インターネット前の時代だったため、8週間、家族や友人と連絡が取れなくなることになるからでした。
広島駅に降り立ち、ホストファミリーに出会ったときのことは、一生忘れられません。彼らと対面したとき、不安で硬直し、涙が溢れそうでした。その瞬間、自分はとんでもない間違いを犯したのではないか思いました。どうやったら夏が乗り切れるだろうかと、途方に暮れました。
ところが、この夏の経験は人生で最も素晴らしい経験になり、後に私を今のキャリアに導いてくれました。たとえ怖くとも、夢を追うべきだという教訓を、15才で得られたことは幸せでした。進むべき道を選ぶとき、その道の終点がどこか分からなくても良いのです。
日本で過ごした最初の夏、私はすっかり日本語と旅に魅せられ、日本語を使いこなせるようになろうと決めました。高校を卒業後、マサチューセッツ州立大学に入学し、日本語及び日本文学を専攻しました。このときを振り返ると、日本語を専攻した学生が、卒業後、翻訳・通訳以外にどんなキャリアを築けるのか検討もつかなかったにもかかわらず、反対しなかった両親に感謝の気持ちがこみ上げてきます。
当時、自分が選んだ道がどこに向かっているのかはわかりませんでしたが、そのとき学んでいたことに対する情熱と、成功するのだという決意だけはありました。心理学者アンジェラ・ダックワースは、ニューヨークタイムズのベストセラーリスト入りした著書”Grit”(邦題は「やり抜く力」)で、「重要な目標に対する情熱と、粘り強さの組み合わせ、つまり『グリット』は、分野を問わず、すべての成功する人に見られる特徴だ」と述べています。私もそう確信しています。
情熱と粘り強さのどちらも重要
情熱だけでは不十分で、根気よく努力することも必要だということを忘れないでください。私にとって「根気よく努力する」とは、何百という漢字を覚えては忘れ、また覚えては忘れるという、気が遠くなるような作業を繰り返すことでした。日本語を勉強し始めてから最初の1年間は、あまりにも難しくて、常に投げ出したいと思っていました。これは高校生の夏、日本で古い神社を訪れたり、かき氷を食べながら思い描いていた生活とはかけ離れていました。日本語の学習には、とてつもない努力が必要でした。
その後ICUで夏期日本語講座を受講し、さらに翌年1年間ICUに交換留学をして、「難しい」という言葉の真の意味を知りました!毎日6-8時間、日本語の授業だけでなく、日本語で社会学や歴史の授業を受講し、日本語で期末レポートを書いたのですから。それでも日本語に堪能になるという夢を実現することに夢中だった私には、やめるという選択肢はありませんでした。
迷ったときは、新しいことを試す
大学を卒業したとき、二つの選択肢を与えられました。京都にある大学院に進学するか、広島でJETプログラム(日本政府の外国青年招致事業)の国際関係コーディネーターとして働くか。
このときの決断は、その後の人生を左右する重要なものでした。修士号を取得した方が実用的なのでは?2年間住むには、京都は素晴らしい場所なのでは?と自問しました。しかし、既に日本の大都市に住んだ経験も、大学のキャンパスで学生生活を送った経験もありました。日本の地方に住み、日本の職場で働くという、新しい体験をしてみたいと思いました。結局JETプログラムに参加し、人生が変わるような体験をしました。日本語が飛躍的にうまくなっただけでなく、日本の労働文化に対する理解が深まり、生涯の友にも出会いました。
このように、どんな道に進んだら良いか分からないときは、「安全な」道から逸れて、やったことのないことに挑戦することが良い場合もあります。
行ける時に旅をする
JETプログラムが終わったとき、まだアメリカで次の仕事を見つけていなかったので、夫と二人で日本からアメリカまでバックパックを背負って旅行しながら帰ることにしました。4ヶ月かけて東南アジア、中東、アフリカ、ヨーロッパの20ヶ国を旅したのです。
若いときに、自由を謳歌してください。大学を卒業してすぐに仕事を始める若い人は多いと思いますが、仕事はいつでも始められます。そして一旦始めると、休暇は少ないし、家を買えばローンの返済もあるし、家庭を持つ人も多いでしょう。将来どれほどたくさんの機会があると思っていても、実際には歳をとるほど休みを取って旅行することが難しくなります。時間があるうちに、たくさん旅をしてください。
悪い経験などない
旅を終えてアメリカに帰国しても、日本語学の学位で何ができるかまだ分からず、ある製造会社で通訳の仕事を始めました。日本語を使って働けることにワクワクしました。ところが間もなく壁に当たりました。通訳が好きでないことに気づいたのです。しかし、自分に合わない仕事も、自分がどんなことが好きで、どんなことに向かないのかを教えてくれるという意味で、貴重だと知りました。ただし、自分に合わない仕事、やっていて幸せだと思えない仕事は、あまり長く続けるべきではありません。
そして、この仕事で得た人間関係が、私を理想の仕事に導いてくれました。アトランタの日本国総領事館での仕事です。領事館では、文化的行事を企画したり、JETプログラムの参加者を選考したり、アメリカの学生が日本に留学する支援をしたり、ジョージア州内でネットワークを拡大することができました。この仕事は11年間続けました。
やがて、昇進の可能性がある仕事に就きたいと考えるようになりましたが、そこでまた行き詰まってしまいました。日本語の能力を使って、他に何ができるでしょう?日本とアメリカの架け橋を作るという目標を、どこで達成することができるでしょう?
ボランティア活動を通してネットワークを広げる
7割の仕事は公募されないと聞いたことがありますか?私のように内向的な人間にとって、この数字は脅威です。つまりほとんどの職は、人と人とのコネクションで埋まっているということだからです。
私は自分にはネットワーク能力が全くないと思っていました。しかしボランティアをするのは大好きでした。私が学んだことは、ボランティア活動は、ネットワークを広げる素晴らしい方法だということです。
2001年にジョージアに引っ越してすぐ、ジョージア日米協会とジョージア日本人商工会でボランティアを始めました。これらの組織を通して、YKKコーポレーション・オブ・アメリカの最高経営責任者と出会いました。イベントで何度かご一緒しましたが、最初の出会いから12年経ったときに、YKKで働く機会をいただきました。
安全地帯を脱する
YKKでの仕事をいただいたとき、企業で働くことに対しての不安と、任務をちゃんとこなせるだろうかという懸念がありました。それまでのキャリアの大部分は政府機関で過ごしましたし、管理職に就いたこともありませんでした。学ぶことはたくさんありました。
成長するためには、新たなことに挑戦したり、より大きな責任を負う必要があります。100%自信が持てるまで新たな仕事に挑戦しないとしたら、いつまでも待つことになります。
生涯学習者になる
大学を卒業しても、学習は終わりません。私はフルタイムの仕事をし、3人の子供を育てながら、通信教育で日本語学の修士号を取得しました。生涯学習者であり続け、情熱と粘り強さを併せ持ち、目標を達成するために障害を乗り越えること、それが私からのアドバイスです。