アラムナイ・ストーリーズ第22回 – 折居徳正さん
折居徳正(おりい のりまさ)さんは、1987年にICU高校、1991年にICUを卒業しました。折居さんは、JICUFのシリア人学生のための奨学金プログラム、シリア人学生イニシアチブの運営において、重要な役割を果たしています。2017年当時、難民支援協会のプログラム・マネジャーであった折居さんは、同イニシアチブの設立を助け、以来トルコに住むシリア人学生への広報、出願者の審査、奨学生の日本への入国を支援し、来日後もサポートを提供しています。現在、パスウェイズ・ジャパンの代表理事を務める折居さんに、ICUでの思い出と、これまでのキャリアについて伺いました。
アフガニスタンでの日々への追憶と今そこにある危機
私は現在財団法人の代表として、シリア留学生の日本の大学・日本語学校への受け入れ(ICUのSyrian Scholars Initiativeを含む)と、アフガニスタンからの退避者の受け入れを支援する仕事に従事している。91年卒業生として時に実感するのは、ICUで学ぶ以前には、これほどイスラム教徒の方々と深くかかわって仕事をすることになるとは、夢にも思っていなかったということである。
キリスト教のバックグランドをもって育った私は、諸宗教に関心を持ち、ICUでは宗教を専攻するつもりで入学した。そして、入学の年から専門科目が履修可能であったため、早速「神学概論」を履修したのだった。当時、ICUのキャンパス・ミニスターでもある古屋安雄先生がこの授業を担当しておられ、その2年前に著書『宗教の神学』を上梓されていたことから。授業の中でも宗教という事象をキリスト教神学がどう捉えるかという点を論じておられた。諸宗教が他の宗教をどのように認識するかに自分が関心を持っていたことから、当時目が開かれる思いで、講義を受講し、先生の著作を精読した。そこからさらに仏教やイスラームについても学びを深め、当時はまだ日常で接する機会も、国際政治や経済でも触れられることが稀であったイスラームにも多少の関心を持つようになった。
その後、コーランそのものにも関心を抱いていたが、最初の邦訳を行った井筒俊彦氏の『コーランを読む』という書物が、広く学生にテキスト解釈に関する教科書としても読まれていることを知り、同書も精読した。碩学である井筒氏の研究の全貌を理解することなど到底及ばない自分ではあったものの、同書を通じて、古代に書かれたテキストを、現代の異なるコンテクストに置かれた我々が「読む」ということがどういうことであるのか、つまり文献の批判的な読み方について、基本的な理解を得たことも貴重な経験であった。
ICU卒業後、企業勤務等を経て2002年、ちょうどニューヨークでの同時多発テロとその後のNATO軍によるアフガニスタン攻撃及びタリバンの第一期政権崩壊があった翌年に、自分は国際協力NGOに職を得て、アフガニスタンに赴任することとなった。ICU在学中、南北問題にも関心を持ち、関連する社会学等の授業も受講はしていたものの、当時はそれを職にするというイメージは持てず、卒業から10年を経て、初志貫徹して目指す仕事に従事したのだった。2002年に赴任した際のアフガニスタンでは、国際社会の協力による新たな国づくりの取り組みが進んでおり、当時の治安はNATO軍及び米軍によって比較的安定が保たれ、各地域で国連機関や国際協力NGOが、国際駐在員を置いて活動している時代だった。イラク戦争に至る前であり、当時人道支援に関わる関係者の間では、東ティモール等他の国連主導のミッションと同様、以後新国家の建設が進んでいくと、今からみれば夢をみていたとしかいいようのない楽観的な見通しが圧倒的であったと思う。そのような中、自分は西部の町ヘラートに赴任し、ソ連占領から撤退、その後の内戦と第一次タリバン政権の支配と崩壊という、激動の歴史を生き抜いてきたアフガン人の若い現地スタッフ達と、医療や教育再建支援の仕事に従事することとなった。
現地スタッフ達は、英語を話し、国際NGOで仕事をするだけあって、ヘラートの上流の家庭の出身であり、彼らを通じてアフガニスタンの、そしてヘラートという都市の様々なことを学んだ。団体スタッフ以外にも、ある時は仕事でヘラート大学を訪れる機会があり、そこで学ぶ彼らの友人の学生達の洗練された物腰、ナイーブなまでの純粋さに、その都市の積み上げてきた歴史と文化を感じた。しかし、長く続いた内戦により十分な教育が行われているとはいい難く、大学を離れていく若者も当時から多かった。
また、農村に調査に赴いた際には、ヘラート川の流域に広がる水田地帯の風景に非常に印象付けられた。広がる水田とその間に建てられた小さな家々は、日本から南アジアに広がる、日本人のイメージする「アジアの農村」そのままで、イラン国境から広がる荒涼とした乾燥地帯を見慣れた目には、驚きであった。農村では、たまたま結婚式が行われており、外国人の特権でその場で急遽会食に招かれ、花婿と共に宴に加わらせて頂いたこともあった。
当時の、そして今もアフガン人の生活にとって、イスラームと宗教は欠かすことの出来ないものであり、現地スタッフとも話題の多くはイスラームや宗教、それに関わる社会や文化の比較等であった。そして彼らの中に、度重なる内戦と戦乱で、国の政治も、経済や社会も混乱し、諸外国の援助で成り立っている状況ではあるものの、その歴史に根差した独自の文化や精神のあり方については、決して他に劣るものではないとの強烈な自負を感じたのであった。前述の通り、自分はICUで諸宗教が他の宗教をどう捉えるかという点に関心を持ち、学んでいた身であったことから、彼らとの間ではよくイスラームとキリスト教、仏教、あるいは日本や西洋の文化、社会について論じ合った。よく知られているように、アフガニスタンはかつてイスラームの成立と受容以前に、仏教が栄えた土地であり、仏教徒はすでに存在していないものの、歴史的な経緯はよく理解されていた。そして仏教について彼らが語ったところでは、イスラームではムハンマドという最後の預言者の前にも、アブラハムやモーセ、イエス等預言者がいたと考えるが、アフガニスタンのイスラーム神学者の中には、仏陀もかつての預言者の一人と考える学派もあるそうだ。一般にアラブ諸国では、歴史や文化の上で仏教との直接の接点はほとんどないことから、仏教は「無神論」「偶像崇拝」と皮相的に理解され、否定的に扱われることが多い。ところが、アフガニスタンでは教育ある若者達に、仏教をイスラームに至る道であったと捉え、包摂する考え方があることを知り、イスラームの持ちうる寛容性に触れると共に、やはりアフガニスタンはアジアの西の端なのだと、実感したのであった。
またヘラートの人々は、アフガニスタン人、あるいはタジクやスンニ派というアイデンティティに加えて、ヘラート市民という自負も非常に強かった。ちょうど日本では古都京都の人々が、「前の戦の時は」といって応仁の乱のことを言うといわれるように、彼らはことあるごとに「アレクサンダーに包囲されたときは」、「チンギスに攻撃されたときは」という話をするのであった。しかしそれは京都と比べてもさらに千年も遡る話であり、確かに歴史の教科書を見直すと、ヘラートはアレクサンダー大王やチンギス・ハンに包囲されて陥落、モンゴルには住民の多くが虐殺されている。その意味でヘラートは、中東のいくつかの都市と並んで古代から連綿と続く街であり、カブールよりもずっと古く、ヘラート市民がこの街に高い誇りと自負を持つのは、当然であると恐れ入ったのであった。
その後自分は日本の事務所勤務となり、アフガニスタンには時々出張して訪問するようになったが、最後に忘れられないエピソードがある。ある出張の際、ヘラートからカブールに空路で移動することとなり、飛行機に遅れそうになりながらあわただしくヘラート空港に到着した時のことであった。現地スタッフが、大学時代の友人でイスラームにも関心が深い学生がいるのでぜひ紹介したいと言われて挨拶をすると、彼は開口一番言ったのであった。「あなたは『イヅツ』を知っていますか?彼は、日本のイスラーム神学者の中では、最も評価できる人だと思います。」慌ただしく飛行機に乗ろうとしている空港で、初めて会うアフガン人から井筒俊彦氏の名前を出されて自分は驚き、久しく忘れていた井筒氏の著作のことを思い出した。「君も井筒俊彦を知っているのか?」彼はもちろんですと答え、その後の会話はものの4-5分であったが、彼もまた「仏陀は預言者の一人だと考えるイスラーム神学者もいる」と語り、日本の仏教について少し話したように記憶している。
アフガニスタンに頻繁に渡航できる日々は、2007年を最後に終わり、以後タリバンの反転攻勢が強まり、渡航は困難となった。その後も現地スタッフを通じてアフガニスタンでの人道支援は継続していたが、2003年にはイラク戦争が開始され、自分はヨルダンに逃れたイラク難民支援に従事、さらにシリア内戦勃発後はヨルダンに逃れたシリア難民の支援、またトルコ経由でシリア国内の支援等に携わることとなった。しかしシリア紛争の頃から自分の仕事を振り返って、米国が次々と引き起こした紛争で人生を大きく狂わされた人々への支援に駆けずり回ってきたが、どれほどのことができたのであろうかと自問するようになっていた。そのような中、2015年には欧州に100万もの難民・移民が移動する危機となり、国際社会の対応が叫ばれたが、当時日本で難民として認定されたシリア人は6人に留まっていた。もう少し日本国内でできることがあるのではないか、そう考えた私は、2016年より難民支援協会が進めようとしていた、シリア難民を留学生として受入れる事業に従事し、全国各地の日本語学校への受け入れの他、JICUFと協力してICUにも、5人のシリアの留学生を送り込んできた(1名は現在オンライン学習中)。
2021年に事業は独立して新団体パスウェイズ・ジャパンとなり、市民社会主導の難民受け入れをさらに拡げて行こうと取り組みを始めたところ、8月15日にタリバンが再び政権を事実上掌握し、日本と関わっていたアフガン人が身の危険を感じ退避を求める事態となったのであった。現在自分は、退避希望者を受け入れ、支援しようとする大学、NGO、個人の方々等の間の調整を担い、少しでも多くの方が日本に逃れて安全と尊厳、そして希望を手にすることができるよう、日々尽力している。
自分がアフガニスタンで過ごした短い日々は、今振り返ると歴史の中で生じた蜃気楼のようなものであったようにも思える。そしてそれは、米国を中心とする同盟国すべてがかけた20年という時間のすべてにも、当てはまるのかも知れない。それでも、あの短い日々に触れたアフガニスタンという国の持つ奥深さ、歴史の重み、そして思弁的な豊かさは、今も自分の中にあり、自分を駆り立てているように思う。今この瞬間に、迫害や抑圧を感じ、逃れる場所を必要としている人々が、一人でも多く人生を取り戻し、意義あるものとして生きることに、微力ながらも貢献できればと願っている。
*シリア留学生の受け入れとアフガニスタン退避者への日本語教育のため、現在クラウドファンディングに挑戦しています。ご協力可能な方は、ぜひご寄付の検討をお願いします。