アラムナイ・ストーリーズ第13回 – 岩瀬功子さん
1974年にICUを卒業し、現在はワシントンDC在住の岩瀬功子(いわせ・のりこ)さんにICUストーリーを共有していただきました。
今年の2月にICU から入学50周年祝賀会への招待状が届きました。思えば私がICUに入学したのは1969年で、いつのまにか50年という長い年月が過ぎていました。4月に三鷹のキャンパスで行われる祝賀会には残念ながら欠席しましたが、長い間埋もれていたICUの学生時代の記憶を掘り起こし、ICUが今の私を形成するにどんな影響を与えたか考える良い機会となりました。
私が入学した1969年は日本中で激しい学園紛争で揺れ動いていた時で、東大の入試が行われなかった年でした。私は経済学と英語を勉強したかったので両方できるICUが第一志望で、胸を膨らませて4月に入学したところ、大学の授業が全くなかったのです。都内の自宅から通っていた私には行き場所もなく、その年の秋に学校側が機動隊を入れて塀を作って授業を強制的に始めるまで何をしていたのかあまり記憶がありません。とにかく高い塀の中に入って授業を受けるか、塀の外に残って抵抗するか学生が真っ二つに分裂することになりました。私は外に残って1年生の授業は翌年4月から受けたため、ICUには5年いて1974年に卒業しました。異常な状態で始まったICUでの学生生活のためかICUの思い出はあまり記憶に残っていませんが、大学執行部に対する不信感は長い間強く残っていました。
ICUを1974年に卒業しましたが、その当時は女性が大学を出ても日本の会社では総合職にはつけず男性の助手的な仕事しかありませんでした。どうせお茶くみをするなら大学で勉強した開発経済に多少でも関わりたいと、国際開発センターという開発・国際協力専門のシンクタンクに研究室の秘書として就職しました。国際連合が行った競争試験に運よく受かり、1975年末にニューヨークの国連本部で働き始めました。国連は主に政治的な機関であることと自分の力不足が重なり、満足いく仕事ではありませんでした。ニューヨークにいる間に自分を磨くことが大事と自覚し、ICUの学位しかなかった私はニューヨーク大学の経済学部大学院に入学し仕事をしながら大学に5年通いました。修士を終えて博士課程にいる間に世界銀行のヤングプロフェッショナルプログラムに応募して採用され、1981年にワシントンに移りました。国連でフランス語を勉強したので最初に担当した国はアフリカのマリ共和国でした。フランス語を更に勉強するため知り合った世銀で働くフランス人と結婚した後、子供3人連れて家族で西アフリカの象牙海岸に3年間住み、アビジャンの世銀駐在所で農業プロジェクトを担当していました。アビジャンからワシントンに戻った1992年に南米局に移り、ボリビア、ペルー、パラグアイを担当しました。
2000年末に50歳になった時、まだ高校と中学に在学中の子供たちと過ごす時間を増やしたくて世銀を早期退職しました。退職後自分が住む地域社会に貢献するには何をしたらよいか考えた結果、カトリック大学の社会福祉科の大学院に入学し臨床ソーシャルワークの勉強をしました。2005年にMSW (master of social work)を修得し、2008年にライセンス(LCSW-Licensed Clinical Social Worker)を取得、2017年12月にリタイアするまで主にフランス語を話すトラウマのある難民と日本人のクライアントを診ていました。
現在は自彊術(じきょうじゅつ)という日本の健康・治療体操をバージニアとメリーランドで日本人コミュニティーのための非営利団体で教えています。13年前にめぐり合ったこの体操を教えるために日本で研修を受けて、教える資格を2015年に取得しました。薬に頼らず自分の体は自分で治すというこの体操をワシントンで広めて皆さんの健康増進にこれからは貢献するつもりです。
大学紛争ではじまったICUの学生生活は後味の悪さが残ったものの、ICUで勉強したことは私の人生を大きく変えました。普通の都立高校を卒業して海外生活の経験もない私にとって、1年目のFreshman Englishは私の英語力を抜群に伸ばしました。SS科の経済専攻でサミュエルソンの電話帳のように分厚い教科書を英語で勉強したことは、後にニューヨークで大学院修士課程の勉強に役立ちました。ICUのフレマンなしで国際機関で働き生き残ることは恐らく無理だったと思います。ICUを卒業して国際開発センターに秘書として就職した時に出会ったICUの大先輩、二期生の堀内伸介氏には大変お世話になりました。外務省と国際連合共催の競争試験があることを知ったのも、ニューヨークの国連本部に就職したのも堀内さんのお陰です。国際機関に就職した後もICUの国際的に活躍する卒業生の幅広いネットワークに助けられました。そして大学生活1年目の躓きで5年かけて卒業したことも人生は必ずしも一直線ではないということを実感する良い経験だったと思います。