アラムナイ・ストーリーズ第15回 – スティーブン・ダイヤーさん
スティーブン・ダイヤーさんは、1980年代初めに研究生として1年数ヶ月をICUで過ごしました。現在はホノルル在住のダイヤーさんに、アラムナイ・ストーリーを寄せていただきました。
私は1981年6月から1982年8月までの15ヶ月間を、研究生としてICUで過ごしました。ロータリー財団の国際親善奨学生として世界中からICUに派遣された25名ほどの大学院生の一人だったのです。国際親善奨学生は大学院で研究したり、インターンシップができるレベルの日本語を習得することを求められました。
私はロースクールの1年目と2年目の間に2年間休学し、留学しました。ICUが提供する日本語クラスの最終レベルを修了し、当時まだ新しかった常用漢字テストに合格した後、八王子の中央大学法科大学院で講義を受けました。その後は、ユアサハラ法律特許事務所で勤務しました。
ロースクール卒業後、米国陸軍法務部(U.S. Army Judge Advocate General’s Corp: JAG)に勤務しました。JAGでは希望の任地を聞かれたので、「日本語を流暢に話せるJAG職員は何人いますか?」と質問で答えました。結局韓国に配置されたのですが、おかげで韓国語を学ぶ機会を得ると共に、軍法会議や行政手続訴訟で兵士を弁護する貴重な経験を積むことができました。
次の任地はハワイで、医療ミス訴訟でトリプラー陸軍病院を3年間弁護しました。この経験は、民間の弁護士業に移る訓練になりました。その後軍の現役から退き、ホノルルで弁護士業に就きましたが、JAGには予備員として残りました。史上最大の軍事機構であり、カリフォルニアからアフリカに及ぶ広範囲にある米国の軍事資産を管理する米国太平洋軍(PACOM)に配置されました。以後17年間、環太平洋諸国に派遣され、実際の事件や訓練演習に関して司令官に法的助言をしたり、環太平洋諸国のJAG職員のために国際法・軍法会議を開催したりしました。
JAGの任務を遂行すると同時に、1994年からはChong, Nishimoto, Sia, Nakamura & Goya法律事務所の代表弁護士としても勤務しました。事務所の23名の弁護士のうち15名は日系人ですが、日本語を話せるのは私だけで、日本語を話せる弁護士を要請され他時に私が顔を出した時のお客様の反応を見るのがいつも楽しみです。
妻の順子は、ICUに留学していた時に出会った江戸っ子です。ホノルルを住処としたのは健康上の理由だけでなく(彼女はゴルファーで、私は下手の横好きです)、文化的にも地理的にも、シカゴと東京に拠点を置く二人の家族のちょうど真ん中だからです。
ICUの美しいキャンパスでは、世界中から集まってきた留学生や、ほぼ全員が英語で会話できる日本人学生と出会い、友好を深めることに喜びを感じました。多くのクラスメートはもちろん、日本人の先生方ともいまだに親交があり、その恩恵を受けています。ICU同窓会ハワイ支部の活動には積極的に関わっています。
高校ではバスケットボール部の選手だったため、放課後ICUの体育館で一人でシュートの練習をしていました。ある日、そこに男子学生の集団がやってきました。シーズン初の練習をするため、ICUのバスケットボール部員が集まったのです。部員とコーチが「君もプレーするのか?」と聞くので、高校でプレーしていたと答えると、練習に混ざるよう促されました。その日の練習が終わる頃には、私はスターティングメンバーでセンターを務めることになりました。同じように高校でバスケットボールをしていた研究生をあと二人リクルートしたところ、二人とも高得点者となり、ICUはそのシーズンを32勝5敗でで終えました。チームメートとは今でも交流があり、仲良くなった相手チームの選手の一人は、私を彼の一人息子の名付け親にしてくれました。バスケットボール・シーズンが終わると、居合道の道場に通い、米国に帰国する前に黒帯(初段)を取得しました。
このように複数の文化や言語に触れ、様々な経験を重ねてきたことと、たまたまホノルルに住んでいたことが、2001年に起きた大事件で役立つことになりました。大きな国際問題に発展しかねない船舶事故が起きたのです。
2001年2月9日、愛媛県が所有するトロール漁船のえひめ丸が、漁師を目指す高校生を訓練するために74日間の航行している最中でした。前日ホノルルに停泊した191フィートのこの漁船には、20名の船員と13名の高校生、2名の教師の合計35名が乗っていました。また、その日は米海軍の原子力潜水艦、USSグリーンビルが一般市民のゲストを乗せてデモンストレーションを行っていました。
かすみがかった金曜の午後2時少し前、オアフ島沖9海里ほどの場所で、グリーンビルが緊急事態を想定した急浮上訓練を行ったところ、潜水艦の舵がえひめ丸を直撃し、えひめ丸は直ちに沈没し始めました。4名の高校生を含む9名の方が亡くなりました。米国沿岸警備隊が残り26名を救出しました。
その夜、PACOMの中佐担当のJAG職員から電話があり、私の日本での経験を元に、PACOM代表としてえひめ丸の生存者と面会し状況を確認すると共に必要なものを調べて欲しいと依頼されました。私は謝罪をしても良いか確認しましたが、まだ事実調査が済んでいないのでその時点では許可が下りず、遺憾の念を伝えることを提案したところ、許可されました。
私は中佐だったので、PACOMの誠意と敬意を表すため、海軍元帥か大将など高官の同行を求めました。私たちは真夜中に沿岸警備隊の施設に行き、えひめ丸の船長・船員と面会しました。持ち物をすべて失った彼らは、施設にあった唯一の服であるオレンジ色の囚人服を着ていました。すぐに新しい服や備品を提供しなければならないと思いました。
船長ははじめ、私が日本語で話しかけたことに驚いたかもしれませんが(私の日本語は完璧ではなく、訛っていました)、母国語で会話ができたことに少しは慰められたのではないかと思います。船長はショックを受けており、船と運命を共にしなかったことを恥じていたようにも見えましたが、しばらくして必要なものを教えてくれました。
日本の文化では、真っ当な行動をとることがとりわけ重要だと思います。この場合、真っ当な行動とは、日本のしきたりに従うこと、あるいはせめて日本の慣習を理解し、この悲劇に際して思いやりと理解を持って対応することでした。
私は遺憾の念を伝えた後、必要なものを揃えるなどして生存者のお世話をしました。生存者が服や生活必需品、電話カードなどを購入できるように見舞金を支払うことをPACOMに提案しました。また、捜査結果を生存者に伝え、家族を日本からハワイに呼び寄せる準備もしました。
このような努力を続ける中、私が日本文化を理解していたことが、状況の悪化を防ぐことに役立ったと考えています。例えば、PACOMは船長が必要な品を購入できるよう、小切手をお渡しすることを考えていましたが、私は日本のしきたりに則り、銘々の船員のお名前を漢字で書いた封筒に新品のお札を入れてお渡しすべきだと主張しました。土曜日に、PACOMの財務官に新品の100ドル札を手に入れてもらうのは容易ではありませんでしたが、日曜日には船員の方々のお名前を書いた26枚の封筒に現金が入れられました。また、事実調査が終わり、私は謝罪する許可を得ました。居合道の流儀に従い、PACOMを代表して正式に謝罪すると共に、現金の入った封筒をお渡ししました。私が何らかの役に立てたとすれば、日本のしきたりに敬意を表し、その状況で真っ当な行動をとったことで、状況の悪化を妨げたことだと思います。月曜の朝、現役の海軍兵士にバトンタッチし、私の48時間の任務は終了しました。この時、ICUで受けた訓練に感謝の気持ちを覚えました。自分の能力が必要とされた時に貢献できたことは幸いでした。
後日、PACOMからこの時の功績を認める勲章と表彰状を受け取りました。表彰状には、「国際的な事件に緊急に対処するため召集され・・・友好的な解決に貢献し」、「米国にとって恥ずべき事件を鎮静し、深刻化を防いだ」と書かれていました。
ICUには感謝の気持ちでいっぱいです。