アラムナイ・ストーリーズ第17回 – 奈良房永さん
三鷹のキャンパスに初めて行ったのは、19歳になる直前、西ドイツから帰国して数日後の1978年8月末でした。母の親友の弟さんが卒業生だったので、ICUの名前だけは子供の頃から聞いていましたが、公立学校で育っていたので自分が行くことになるとは想像していませんでした。
ちょうど出張で一時帰国していた父と訪れて、まだ夏休み中でしたが当時学生部にいらした川上ひめ子さんが閉鎖中の第一女子寮を見せてくださいました。9月初めに第一に入寮、とりあえず9月入学でICU生になりましたが、高校1年まで海外に出たことはなく、突然の父の転勤で西ドイツ、デュッセルドルフのアメリカンスクールに2年間だけ行ったので、9月生の割には英語が下手で、4月生と一緒にいることの方が多かったと思います。
当時このようなバックグラウンドで入学すると、FEP(Freshman English Program)もSpecial Japaneseも免除だったので、最初からジェネエドや専門のコースに登録できました。アメリカンスクールでは英語ができなかったため、日本では苦手だった数学の方が成績が良く、TOEFLやSAT英語のスコアがひどかったので、入学時は理学科で数学専攻を志望しました。元々苦手だった数学が大学レベルで追いつけるはずもなく、フレマン(FEP)の成績はガタガタ。早速2年目から社会学科に転科し国際法を専攻しました。横田洋三先生のクラスを取り、国際公務員になろうと思ってGSPAに進んだのですが、大学院の間に民間企業の法務業務に興味が出て、GSPA修了後は日本ビクター(現JVCケンウッド)に入社しました。雇用機会均等法施行前の1985年入社で、女性社員の待遇差別は合法、制服着用、掃除当番、お茶くみは当然という時代でした。それでも上司に恵まれ、バブル経済真っただ中の通商問題を担当し、ジャパンバッシングに憤慨しながら反ダンピング調査の対応や経済制裁の調査を経験することができました。
ICUでは国際公法を学んでいたので、アメリカやEUの通商法は知らないことばかりで毎日が勉強でした。このような仕事の中で知り合ったのが欧米の大手法律事務所の弁護士達でした。仕事に慣れてくると、この渉外関係の法律問題で日本企業を代理している法律事務所は、極めて優秀な人材を揃えているけれども、日本の企業文化を理解していないために非効率な結果をもたらしているのが見えてきました。同時に企業内の女性の「ガラスの天井」も見えてきて、次第にアメリカで法律を学んで日本企業を代理できる弁護士になりたいと思うようになりました。
その時にアドバイスをいただいたのが、ICUの最上敏樹先生でした。1980年代にはまだインターネットで留学先を調査するということもできず、とりあえず数少ない関連書籍や人づてに聞いた話が情報源で、最上先生にもお話しを伺いに行きました。自分の意図を説明すると、ロースクールに行ってJuris Doctorという3年プログラムに入りアメリカの弁護士資格を取る道がある、でも有名校のロースクールは入るのが大変だから比較的新しい、ニューヨーク郊外にあるHofstra という大学のロースクールの評判が上昇中だから検討すると良い、またロースクールの学費は高いからCWAJ (College Women’s Association of Japan) の奨学金に応募してはどうかという、極めて有効なアドバイスをいただきました。案の定コロンビア大学やニューヨーク大学のロースクールは不合格で、1988年にHofstra Law Schoolに入りました。
初めて住むアメリカに到着した時は、横田ゼミの先輩で国連人事で活躍なさった茶木久実子さんがJFK空港まで迎えに来てくださり、ロースクールが始まるまでお家に泊めていただきました。当時はGSPAで先輩の山崎節子さんもニューヨークのUNDPに勤務していらして、こちらの生活のことなどでいろいろ教えていただきました。ロースクールでの勉強は想像以上に大変で、茶木さんと山崎さんには年中電話で愚痴を聞いてもらっていました。最初の学期が終わった時は中退して日本に戻ろうかと悩んだ時もありましたが、2学期目から次第に要領がわかってきて、2年生になる時にはローレビューの編集員に選ばれました。ローレビュー編集部に入ると就職の道も開けて、2年生終了後の夏には大手法律事務所のインターンシップであるサマーアソシエートプログラムに入ることができました。まだ日本のバブル経済が続いていたので、多くの方からM&A等のディール担当の弁護士になった方が良いと言われて、サマープログラムではこれを経験しましたが、やはり自分は通商問題に向き合う仕事がしたいと思い、卒業後には通商法・関税法管轄専門の連邦国際貿易裁判所で裁判官の助手(law clerk)を2年間経験しました。ビザで滞在している外国人でも連邦公務員になれるアメリカの懐の深さに驚きました。
ところが裁判所で働いている間に日本のバブルがはじけてしまい、1993年に裁判官助手の期間が終わった時には就職先を探すのに大変に苦労しました。何十人もの人に面接してもらったりアドバイスをいただいて、やっと日本企業を通商問題で代理する弁護士に巡り合い、念願の仕事を始めました。ところが反ダンピング法の案件はアメリカへの輸入品が増加して、米企業がダメージを受ける場合に成立するので、90年代半ばに日本が不景気になってからはほとんど新規の調査はなくなり、先輩弁護士には「房永は弁護士になるのが10年遅すぎたね」と慰められる始末。でもせっかく苦労してこちらの弁護士資格を取得したのだから、尻尾を巻いて帰国するのは悔しいと思い、その後は日本企業が巻き込まれる民事訴訟をより手広く扱うようになりました。25年以上に渡り、通商法のみでなく、独占禁止法、不公正取引規制違反、契約違反、知的財産権(特許、商標権等)侵害、クラスアクションなど様々な案件を扱う機会に恵まれました。
日本人でアメリカの弁護士資格を有している人はかなりいますが、訴訟手続きを専門とする人は極めて少ないので驚かれることもあります。判例法に基づき、ディスカバリーという自らの証拠の開示義務があるアメリカの訴訟手続きは、大陸法に基づく日本の訴訟手続きとは大きく異なるので、初めてアメリカでの訴訟に巻き込まれた企業は戸惑うこと、憤慨することが多いです。なぜアメリカの手続きがそうなのかを何度か依頼者に説明しているうちに、これは自分がかつてジャパンバッシングの中で通商法手続に対応していた時に感じていたフラストレーションと同じなのだと気づきました。ならば自分が弁護士になったのが遅すぎたわけではなく、まさに目標としていた仕事が実現したのだと思えるようになったのは、弁護士になってから10年以上経った頃でした。
それから10年ほどはガムシャラに仕事をしていましたが、数年前から自分のキャリアを振り返るようになり、こうしてやりがいのある仕事をして大好きなニューヨークでの生活を続けていられるのは、16歳で西ドイツに引っ越した結果、ICUに入ったのが私の人生の大きな転換点だったと感じています。寮生活をしていたためかもしれませんが、キャンパスでどんな話題でもタブーではなく、自分の考えを話すことができました。これは本当に素晴らしい環境だったと思います。フレマンと時に会った2学年先輩の夫とはなぜか同時に卒業し、GSPAの修論提出後にすぐ結婚しました。付き合い始めてから40年以上になりますが、今でもお互いのICUにいた時の時間は私たちの大切な財産だし、よく大学時代の話をします。
こちらで2人の子供を育てて驚いたのは、幼稚園から大学まで卒業生のネットワークが強力で、卒業してから何十年経っても、ボランティアや寄付金を通じて母校に貢献している人がとても多いことです。その影響もあってこちらのICU同窓会やJICUFのイベントに前より積極的に参加するようになり、ICU創設の歴史の詳細や、一度は停止していたJICUFの活動が、コダック社で働いていた、ドナルド・オスマー博士という方の遺贈で復活し、今日に至っているということを知りました。素晴らし教育を受ける機会があったからこそ自分の夢が実現し、その教育を可能にしたのは実に多くの人たちの努力の積み重ねだったことを実感しました。
ニューヨークで生活をしているとICU卒業生に出会うことがしばしばあり、そのたびにとても嬉しくなるのですが、最近の日本では留学希望の学生が減少しているという話も耳にします。確かにロースクールに留学する日本人は、韓国人・中国人に比べて相対的に減少しているようです。でも昨年JICUFを通じて松田浩道先生にご紹介いただき、模擬裁判チームのメンバーとお会いしたり、在校生でアメリカの法曹界に関心のある学生さんと話をする機会を得て、やっぱりICU生はまだ元気があるかなと少し安心しました。
今のアメリカはコロナ感染問題だけでなく、人種差別問題が極めて深刻化し、Black Lives Matter運動が盛んで、先行き不透明な状況が続いています。多人種、異文化国家だからこそこういう問題があるのですが、それがものすごくポジティブなエネルギーに繋がる場合も多く、学ぶところはたくさんあります。これまでの経験を活かして今後もいろいろな経路を通じて日米の橋渡しを続けていきたいと思います。