アラムナイ・ストーリーズ第19回 – ティム・ワイナントさん第2部
1960年代に学部交換留学生と研究生として二度に渡ってICUに留学したティム・ワイナントさんの「アラムナイ・ストーリー」第2部です。第1部はこちらです。
キャンパスと寮生活
日本の暮らしを体験し、日本について学ぶ方法は複数ありますが、留学生に人気がある方法の一つがホームステイです。できれば夫婦だけでなく、子供もいる日本人家族と一緒に暮らせれば、日本の生活をより深く知ることができるのではないかと考えられます。あるいは独立心旺盛な学生にとっては、キャンパス外のアパート住まいの方が魅力的かもしれません。祖国で一人暮らしをしていた学生にとっては、完全に自由に行動できる環境の方が、ホスト家族と同居するよりも望ましい場合もあります。しかし、私にとって最も興味深く、有意義だった経験の一つは、学生寮で暮らしたことでした。私の場合、学部に留学した時と、その二年後に既卒の研究生として留学した時の二回とも、寮で暮らすという特殊な経験をしました。それは、ICUや、日本人学生の大学生活を、異なる視点から見ることを可能にしてくれました。
寮では、アメリカの大学とは全く異なる生活に慣れる必要がありました。私はICUで最も古い第一男子寮に入りました。残念ながら、この寮は今はもうありません。当時「ジュピター・ハウス」と呼ばれていた第一男子寮には四人部屋があり、ICUの他の寮と比べて、共同生活感が強い寮でした。寮生には、電話番や清掃係など、様々な責任と役割がありました。私にとって、このようなシステムは初めてでしたが、日本人学生と同じ体験ができたことは、とても貴重でした。最初からアメリカとは異なる生活を予想し、日本のやり方の良し悪しを判断することを控えようと決めていた私にとって、新生活への移行は驚くほどスムーズでした。自分にとって異質なものを受け入れ、不測の事態を予測することが重要だと考えていたのです。
ジュピター・ハウスは、実にうまく運営されていました。寮のリーダーは学生が選出し、少数の留学生をも含むすべての学年の学生が参加できる、しっかりし活動を行っていました。私が住むことになったのは、二階の倉庫の隣にあった、この寮で唯一の二人部屋でした。化学専攻のルームメートはキャンパス外の活動で忙しく、ほとんど顔を合わせることはありませんでした。そのため、私は他の寮生と知り合おうと努力し、彼らの側からアプローチしてくれた時はおおいに喜びました。
電話番などの当番は、日本語の練習になりました。電話がかかってくると、相手は必ず日本語を話したからです。相手が誰と話したがっているのかを理解するためには、多様な敬語を理解する必要がありました。電話を取り次ぐために走り回っているうちに、すべての寮生と知り合うことになりました。共同空間を清掃するのは、私にとっては新鮮でしたが、日本人学生は学校を清掃することに慣れていると知りました。ソーシャル・ルームや廊下、風呂場の清掃は、全寮生が協力して行う共同作業でした。
年に一度の寮祭は、普段寮生活とは縁のない人々を寮に招くチャンスで、寮生の共同努力を要する、楽しいイベントでした。このイベントを機に、寮生はさらに仲良くなりました。寮対抗のコンペやスポーツ、学生クラブの活動なども、充実したものでした。寮生活は、60年経った今も続く友情を培ってくれました。
ICUで過ごした最初の1年間、寮の行事にはもちろん参加しましたが、それ以外にも、ソーントン・ワイルダーの戯曲、「危機一髪」に出演するというユニークな体験をしました。監督は、ハバフォード大学からの客員教授、アイラ・リード先生の夫人であったアン・クック・リードさんで、キャストは真にインターナショナルでした。キダー先生をはじめ、数人の教員も参加しました。私は主要な役は務めませんでしたが、三役を担当し、全幕に出演しました。また、趙淳昇先生(韓国・高麗大学校からの客員教授)の授業を受講していた数名の学生で韓国を訪れたことも、この年のハイライトでした。当時、日本と韓国はまだ国交を正常化しておらず、我々は、戦後初めて韓国を訪れた日本の大学生グループでした。そのため、韓国ではずいぶん注目を浴び、首相と面会する機会にも恵まれました。ホストは延世大学で、釜山とソウルの両方でホームステイを楽しみました。
ICUで一年を過ごした後、日本語がまだ十分身に付いていないことを理由に、学部卒業後、再び一年間日本に戻る決意をしました。結局、日本に戻れたのは二年後でした。二度目の留学では、研究生として、集中日本語講座(JLP)を受講しました。キャンパスには既卒者向けの住宅がなかったことから、今回はキャンパス外に住むことになると思っていました。ですから、大学のハウジング・オフィスから再び入寮を勧められて、びっくりしました。喜んで同意したものの、キャンパスに着いて、第一男子寮の顧問だった大口先生宅に招かれた時に初めて、以前同居していた学生たちが私の入寮を要請してくれたと知りました。異例の対応でしたが、とても嬉しく思いました。私にとって、再び第一男子寮がICUでの住処となったのです。
キャンパスに住むICUの教員が、学生の訪問を許してくださったことも、貴重な体験でした。ほとんど毎週のように、どなたかが学生を招いてくださいました。私はトロイヤー先生、趙先生、リード先生、キダー先生、猪俣先生など、何人かの先生方とそのご家族と、とりわけ親しくなりました。ICUで過ごした時間は、教育面だけでなく、個人的にも特別な意味を持ち、その後の人生に大きな影響を与えました。それは、ICUが掲げる理想へのコミットメント、長年に渡る友情、そして消えることのない思い出をもたらしてくれました。
この記事は、全4部の第2部です。第3部はこちらから。