アラムナイ・ストーリーズ第19回 – ティム・ワイナントさん第3部
1960年代に学部交換留学生と研究生として二度に渡ってICUに留学したティム・ワイナントさんの「アラムナイ・ストーリー」第2部です。第1部はこちらで、第2部はこちらです。
ICUで出会った人々
ICUという大学について考える時、その発展とコミュニティの形成に貢献した人々の顔が心に浮かびます。私が学生だった当時、ICUにとりわけ大きな影響を与えた人々が何人かいました。
40年以上ICUに仕えた古屋安雄先生(宗教学・神学)は、あまりにも長く不動の存在であり、彼以上に大きな役割を果たした人物は思いつきません。ICUの初期、複数の学長の元で大学に奉仕し、教会をキャンパス生活の中核として発展させたのは、古屋先生です。すべての学生がICU教会の扉を通って入学し、卒業していきました。古屋先生のお人柄はユニークで、流儀は創造的、そしてその存在は安心感をもたらすものでした。
モーリス・E・トロイヤー先生(教育心理学)は、ICUの初期のカリキュラム作成に当たった中心的人物でした。私は学生時代にトロイヤー先生と知り合いましたが、先生の退任後、ビリー夫人と共に、私がいたペンシルバニア州に引っ越され、親交を深める機会に恵まれました。JICUFのイベントがあると、先生ご夫妻を私の車に乗せ、ニューヨークまで運転したものです。また、私がご夫妻の故郷・イリノイ州のとある街に2年間住んだことも、さらにお二人と親しくなるきっかけになりました。トロイヤー先生は、ICUを形作った人の一人です。
J・エドワード・キダー先生(美術・考古学)も、ICUの初期に貢献した重要人物の一人です。ICUに最初に留学した時、先生の日本美術に関する授業を受講しましたが、当時のノートをまだ持っています。先生はその専門知識、観察眼、ユーモアを通して、学生に美術に関する知識を与えるだけでなく、我々が日本を深く理解することを助けてくれました。また、先生と対照的でありながら、日本の考古学について同じくらい深い造詣のあったコーデリア夫人のことも、忘れることはないでしょう。
鮎沢巌先生(労働問題)は、とても興味深い人物でした。鮎沢先生はスイスの国際労働機関(ILO)に長年勤務し、1935年から日本が脱退した39年までILO東京支局長を務めましたが、ILOに初代アメリカ代表として派遣され、後にILO事務局長を務めた私の大叔父、ジョン・ワイナントの同僚でした。鮎沢先生は、観察力の鋭い、知識豊かな教授でした。
留学生にとって、最も重要な存在であり、最も厳しかったのは、唯一無二の小出詞子先生(日本語学)でした。毎週金曜日の小出先生の授業に、我々は震え上がったものです。先生は教室に現れ、教科書を開いたかと思うと、完全にその内容を無視して、機関銃のように学生を質問攻めにするのでした。予習してこなかった学生や、答えに詰まった学生は、気の毒なものでした。しかも大変だったのは授業中だけではありません。先生は週末のためにたっぷり宿題を出しました。ある時、日本語でお伽話を創作するという宿題が出て、私は日頃の鬱憤を晴らすため、洞窟に住む鬼が、毎週無実の外国人を虐めるという話を書きました。この宿題を提出した翌日、ある先生に「あなた、具合が悪そうだから、金曜日は休んだらいかが?」と言われました。翌日、別の先生にも同じことを言われました。「なぜ金曜日に?」と不思議に思っていたら、その理由がわかりました。金曜日、小出先生の授業が始まると、先生は他の学生を完全に無視し、最初から最後まで、私に質問を浴びせ続けました。私がしっかり教訓を学んだことは、言うまでもありません。
松村(高橋)たねさんも、初期のICUの重要人物です。松村さんは日本初の女性大学図書館長でした。当時の他の大学図書館と比べ、ICU図書館は雰囲気とプロフェッショナリズム溢れる重要な場所でしたが、それは彼女のおかげでした。学生時代、日々図書館に通う中で、彼女の知識と経験にはいつも感心させられ、少なからぬ影響を受けました。
ICUは、教員であれ、職員であれ、学生であれ、常に素晴らしい人々を引き付けてきました。ICUがその門をくぐった学生たちに与えてきた影響は、大学としての成功の証であると共に、それぞれの方法で世界に貢献する卒業生のインスピレーションであり続けているのです。
この記事は全4部の第3部です。第4部はこちらから。