アラムナイ・ストーリーズ第21回 – 土橋喜人さん
土橋喜人さんは1991年3月にICUを卒業しました。今年7月にJICUFの「グローバル・アラムナイ・スピーカー・シリーズ」に登壇した際のお話をまとめていただきました。ご両親、ご夫人ともICU卒で、卒業後も「ICUにどっぷりの人生」を歩み、現在は国際協力関係者の同窓会・ICUICUの会支部の支部長を務めています。
「考える前に行動せよ」大学で学んだ一生使える金言
幼年期
私は父(土橋信男(5期))と母(山口文子(4期))ともICUの卒業生で、父がICUの職員として働いていたため、赤ん坊の頃はICUに住んでいました。言葉も話せない年頃に父の米国留学に伴い、ニューヨーク州シラキュース市へ。最初に覚えたのは英語ですが、帰国したのが小学校にちょうど入る時点であり、なんと完全に英語を忘れてしまいました。私が自分の人生で悔やむことがあるとすればこの時の自分の英語に対する姿勢です。
小中高は札幌市で育ちました。その当時から国際協力に関心があり、犬養道子さんの「人間の大地」を読んで、将来はその道に進みたいと思うようになりました。大学の進学先を決めた際には、国際協力分野で活躍している人が多いということでICUを第一志望と決めました。ところがNativeだったはずの英語を忘れるどころか、苦手科目にしていたのです。加えて、硬式野球部に打ち込んでいたこともあり、勉強は芳しくなく、担任の先生と父との面談記録では「勉強は今一歩である」という直筆のメモが父の遺品に残っていました。それでも、大逆転でICUに現役で合格することできました。その間、親の離婚、母の渡米、父の再婚もありました。
ICU
ICUでは、寮生活に魅力を感じ、破天荒さを感じた第二男子寮に入りました。寮生活での学びは多く、イニシエーション等のイベントが目立ちますが、日常生活での濃密な付き合いが良い学びとなりました。学年、人種(日系人やOYRともルームメートでした)、諸々の違いがある中、認め合って生活をすることで、学生生活に深みが増したと思っています。そして、そこでの仲間は本当に生涯にわたるものです。この時に第二男子寮で学んだ金言が、「考える前に行動せよ」でした。おかげで学生生活も人生も、他人にはできない色々なことが経験できたと思います。
一方、学業は、当初はローグレに近い成績を取ったりもしたものの、その後に盛り返し、メジャーは社会学で、都市スラムの研究で知られた新津晃一先生につきました。
寮生活と学業以外では、ラグビー部で4年間土埃にまみれ(今は人工芝で羨ましい!)、ハンドベル部で音符も読めないのにベルを打ったりしました。タイのワークキャンプやアジア学院(ARI)のワークキャンプに行ったり、3年生の夏休みには高校の時に離婚して渡米した実母がいるオレゴンへ行く等、様々な経験をしました。
学生時代の経験や築いた人間関係は一生ものです。本文では寮の繋がりを中心に書いていますが、ラグビー部、セクション、ゼミ、バカ山やD館での仲間等の様々な繋がりができました。
社会人
卒業の時期はちょうどバブルの終盤でした。国際協力に関心はあったものの、まずは世の中を知らないといけないと思い、一般企業への就職を考え、様々な業種と触れ合えると考えて、まずは三和銀行(現・三菱UFJ銀行)に就職しました。幸い、取引先にも恵まれ、また可愛がられ、営業成績優秀者として何度も表彰を受けました。「ひたむきさ」「一生懸命さ」がよかったのだと思います。
浜松支店と横浜支店で5年間勤務後、国際協力業界に進むため、青年海外協力隊に参加することを決意して、応募しました。不思議と家族の反対もなく、むしろ「きちんとけじめをつけて(辞めて)いきなさい」と父からは後押しされました。
フィジーでの3年間では、援助するよりもかえって途上国から学ぶべきことが多いことを痛感しました。最初の1年半は、何もできず、ホームステイ先のお母さんからは「このごくつぶし!」とののしられる始末でした。ようやく活動が進むようになり、村の女性グループ、青年団、村の漁民、村のリーダーたちなどと家庭菜園、洋裁、換金作物、ナマコの仲介、学校売店、ラグビーチーム支援、稲作支援、観光、等々、いろいろなことをサポートして、信頼を得ていくようになりました。
交通事故
活動も順調に進み、任期も残り半年余りとなった時期に、交通事故に見舞われました。こちらはオートバイ、先方はタクシーでしかも飲酒運転でした。正面衝突で避けられない状態でした。瀕死の重傷でしたが、幸い町の病院に連れて行ってもらえ、フィジーで3日ほど、豪州で2か月ほど、日本でさらに半年ほどの入院が必要でした。豪州で入院中には、豪州に留学中のハンドベル部の後輩や、日本から寮の同期が見舞いにきてくれました。
1998年のクリスマス直前に日本に戻り、そこから人工関節の置換、歩行訓練、などがあり、左足に障害(股関節、膝関節、足首)が残り、身体障害者となったものの、1999年夏に社会復帰しました。そして、縁あって、アジア経済研究所開発スクールへ進学することができました。たまたま同期11人中3人がICU出身でした。
留学
縁があるところと考え、学部長だったデイビッド・ヒューム教授が大洋州(PNG)の研究をしていたということもあり、マンチェスター大学への進学を決めました。実際、その縁でヒューム教授との個人的な付き合いは現在も続いており、大きな大学では得られなかったネットワークを得たと思います。ICUの先輩ともここで会い、後にヒューム教授の共訳本「貧しい人を助ける理由」(Should Rich Nations Help the Poor?)を一緒に出版しました。
学業以外でも多くを学びました。イギリスの国や文化、人の生活を見たことは、よい勉強になりました。また世界中の同期から学ぶことができる多くの文化・風習をもっていることを知ることが出来ました。留学は、自分の中にある様々な固定観念を転換するのに非常に役立ちました。30歳を越えてからの留学というタイミングは、人生の時期としてはよい時期を選んだと思います。留学時代に学んだことから、実務に直接関係するようなことで議論することが出来ますし、想像以上の発展が望めると思います。
再就職
留学から帰国後は、日本政府の開発援助の実施機関である国際協力銀行(JBIC)へ就職することができました。JBICは開発途上にある海外の地域の経済および社会の開発または経済の安定に寄与するための貸付け等(ODAローン)を実施する特殊法人でした。
就職活動の途中までは有償協力(=JBIC)と無償協力(含技術協力)(=JICA)のどちらを自分がやりたいのか、というところが一番の悩みとなりました。ですが、大学院の友人たちにも相談し、役割分担と割り切って、最終的にJBICに決めました。でも散々、JBICがいいか、JICAがいいかと迷ったにもかかわらず、7年後には組織間統合によって同じ組織になっていたというのは笑い話です。
最初は西語もできないのにラ米担当部署に配属され、こちらは英語、先方は西語でやり取りもしました。その後、夢だった海外駐在(バングラデシュ)になったのですが、交通事故の手術痕がMRSA感染症にかかってしまい、やむなく帰国して治療し、そのまま異動になり、悔しい思いをしました。ただもっと悔しかったのは、その後も足の感染症が再発を続け、駐在どころか海外出張にも行けなかったことです。国際協力の仕事に就いたのにも関わらず、です。
ライフワークとの出会い:障害と開発
そのような中で、出会ったのが「障害と開発」の取り組みでした。私のICUの大先輩であり、父の大学寮の後輩でもある松井亮輔(7期)さんが既に障害と開発の取り組みを進めていました。松井さんから色々な国内のネットワークのご紹介をいただき、あっというまに日本の様々な専門家の方々との関係を築くことができました。おかげで組織内での障害と開発の取り組みを進めていくための体制を整え、実際に色々なことができました。
2008年にJBICからJICAに移籍後は、障害と開発の取り組みがどのように進んだのかを分析しました。有償資金協力、無償資金協力、技術協力の取り組みの比較、青年海外協力隊の中の障害と開発関連の要請の割合の推移、全プログラムにおける取組状況の推移、といったこれまでだれも手を付けてこなかったことに着目して、論文にまとめたりしました。
退職して研究者の道へ
JICAでの最後の配属先は研究所だったのですが、業務内容は事務仕事であり研究ではありませんでした。ですが、それまでも上記のようなことをしているうちに自分で研究をやりたくなっていきました。
大きな決め手は足の再発(バングラデシュからの帰国)から10年ほどたって、医師からついに「大がかりな手術が必要になる。半年から1年の入院は覚悟してほしい。」と言われたことでした。手術後に組織に戻って定年まで残り10年少々、自分の好きな仕事をさせてもらえるわけではありません。自分の好きなことをやるために辞めよう、と決めました。
退職して、すぐに足の人工関節の置換手術を受けました。幸運なことに、ほぼ、最短に近い3か月少々での退院が可能となりました。そして退院後の治療の甲斐あって感染症はほぼ根絶することができました。
そのような中で、大学院への進学先をどこにするのかを、あちこちの先生のところを回り、探しました。散々、探した結果、今の宇都宮大学地域デザイン科学部の大森宣暁教授の研究室に行きつきました。
大学院の研究・これからの研究
大学院の研究は時には楽しく、時には辛く、時には気が滅入りそうになりました。また、研究室の学生たちは親子ほど離れているのですが、仲良くしてもらえました。特にダナン科学技術大学と宇都宮大学の合同ワークショップが私の入学した年から始まり、私もそのメンバーに加えさせてもらって、学部生時代のタイのワークキャンプに行ったような気分になりました。今でも初回のメンバーとは仲良く連絡を取っています。
所定の3年間で学位が取れることが決まった時は、天にも昇るような気持でした。学位授与式は、人生のメインイベントの一つです。
現在は大学に客員教授として研究室に残って研究をしています。他大学の非常勤講師や、研究室のゼミでの学生の指導等もやっており、少しずつ実績を積み上げて次のステップを目指しています。
学生・若手へのメッセージ
私の人生は紆余曲折を経てきています。その時にはいつも選択肢に迷いますが、いつも「考える前に行動」してきました。それは大学の寮生活で学んだ大きな財産でした。大学は学位をくれますが、それ以上のことは自分次第です。そこには自分自身の生き方が反映されます。その際には仲間がいることが大きな救いとなります。私は色んな局面で第二男子寮の仲間に助けられました。
また、将来的なビジョンをきちんと持っておくことも重要です。それを達成するためには、アンテナをたくさん張っておくことも大事です。私も多くの方々にアドバイスをいただき、非常に支えられました。それなしでは今の人生はありませんでした。ただ最終的には自分自身で決断することを忘れないで欲しいです。決めるのは自分、責任を取るのも自分、楽しむのも自分です。
そして、将来的なことでは、皆さんの将来のパートナーとはよく自分(や相手)の想いや夢を話し合っておくことが大切です。私の退職を理解して、後押ししてくれたのも妻(石渡真紀子:35期/ID91)です。入籍後、わずか1年で辞めることを決めた際も、同意というよりも後押しをしてくれたのが妻でした。パートナーの理解なしには自分の人生もありません。夫唱婦随ならぬ婦唱夫随が夫婦円満の秘訣です。このことは大人になればわかることでしょう。