アラムナイ・ストーリーズ第23回 – 諸星裕さん
1969年にICUを卒業した諸星裕さん(13期)は、世界を舞台に、さまざまな分野で活躍してきました。今年、JICUFにプランド・ギフトを誓約し、湯浅八郎ソサイエティに入会してくださった諸星さんに、ICUでの学生生活と、多彩なキャリアについて伺いました。
僕の人生において、多岐にわたる分野で、しかも世界中で仕事をする機会を持てたのは、ICUでの経験がなければ不可能であったと思います。世界を股にかけた人生を送りたいという漠然とした理由で、ICU以外は受験せず進学しました。特に何を勉強したいということがなく、とにかく型にはまらない人生を送るための基礎を身につけることを考えていたので、語学科で学びました。
入学後数日目のある出来事は強烈でした。食堂で前に座っていたアメリカ人学生が”How do you spell Hawaii?”と僕に聞いてきたのです。えっ、こいつアメリカ人なのに、日本人新入生の僕にそんなこと聞くの?あの瞬間に僕の外国人に対する漠然とした壁がなくなりました。まさにこのような経験がICUに僕が求めていた事でした。
学生時代はアメリカンフットボール部の練習と試合に、他大学の仲間とバンドを結成しライブをやったり、通訳のバイトで稼いだお金と親に援助してもらって買った車でラリーをやったりと、極めて多忙な毎日でした。おかげで成績は最悪でした。
とりあえずアメリカの大学院に行こうと思い、何かとお世話になっていた三隅達郎先生に相談したら、君はスポーツや音楽など遊ぶことが好きだから、レクリエーションの分野で、日本人で初めての博士号をとってきなさいと言われ、余暇学の分野の本を20冊ほど慌てて読みました。進学先は三隅先生のご指示でユタ州のBrigham Young、言わずと知れたモルモン教会が経営する大学です。酒、たばこ、コーヒー、紅茶など一切禁止の院生生活。必死に勉強して1年で修士を終えて逃げ出すことに成功しました。
在学中に何となく自分がやりたいことが分かってきて、究極の人間学ともいえる犯罪学に興味を持ち、博士課程に進学許可をもらっていた数校の教授から、一度外に出て実地経験を積みなさいというアドバイスを多くもらいました。とはいえ、米国ですぐ就職することは難しく、修士論文を書きながら就活の結果、カナダ・オンタリオ州トロント郊外の女性刑務所に就職しました。そこでは心理分析や余暇活動歴の調査などに従事し、矯正教育のティームの一員として、連日犯罪者のプロファイリングや、矯正プログラムを行ったりという仕事をしました。2年後には新たに開所した少年少女鑑別所に異動し、さらに2年後に米国に戻りユタ大学で博士課程に入学しました。
2年間在籍しPh.D.を取得し、ミネソタ州立セントクラウド大学の助教授として赴任しました。まさかあれほど寒いところとは知らず、森と湖の美しい州が厳寒期には-40度(FとCは-40度で同じ値になります)というところでしたが、就任8年後に教授に、その3年後に学部長を経て大学運営にかかわりました。1990年に州立大学機構が日本の秋田に日本校を開設するということで、その大学の初代学長として思いがけない形で帰国しました。その大学では5年間過ごし、国内での認知や基盤整備をしました。同大学は13年間存続し、その後継大学として秋田県立国際教養大学が設立され今日に至ってます。
それをさかのぼる1976年に僕の運命に大きな影響を与えることになった出来事がありました。博士課程の2年目で、すでに規定単位も取得し博士論文も書き終わりかけだった時でした。カナダの友人から電話があり、同年夏に行われるモントリオール五輪で日本の放送団が通訳と交渉役を募集しているとのこと。冗談半分で応募したら、採用されました。その2か月は国際オリンピック委員会(IOC)をはじめとする世界のスポーツ界で君臨する団体、世界のテレビメディアやスポンサー企業などの人々と毎日仕事をすることで、とてつもない大きな人脈を作ることができました。
先述の秋田の大学の任期を終え、そろそろ米国の本校に帰ろうと考えていた時でした。旧知の友人から2002年のサッカーワールドカップの日本への招致を手伝ってくれとのこと。そこでミネソタの大学には2年間の休暇願を出し、東京をベースに2年間の間に世界50か国以上を回り、招致のためのロビー活動に従事しました。その後東京の大学に教学担当副学長として招聘を受け、ミネソタ州立大学を辞職し、正式に日本に帰国しました。
日本の大学に就職するとほぼ同時期に、テレビ界にいた友人から誘いがあり、全国放送の朝の新番組のコメンテーターとして出演を始めました。国際的な経験、犯罪を含む社会問題、教育、スポーツや音楽などに関する僕の知見を活かしたいとのことで、週に2日全国で約1400万人の視聴者を持つ番組でした。その番組には12年間出演し、他局の番組にも出演する機会を与えられTV業界とは20年間のお付き合いをしました。
以前からの継続で数多くのスポーツの団体からの要請は続き、大学では副学長として勤務しながら、結局夏冬合わせて7回のオリンピック、サッカー以外にも世界体操選手権を福井県鯖江市に持ってきたり、オリンピックの種目に入っていないスポーツが4年ごとに集まって行うワールドゲームズ(例えば空手、ボウリング、綱引き、水上スキー、スカイ・ダイビングなど約30種目)を秋田に招致してきてその運営に携わったり、日本ゴルフツアー機構の副会長としてゴルフを五輪に入れたりとスポーツの世界にどっぷりつかってしまいました。日本のゴルフツアーを支援していた、あるスポンサー企業のオーナー社長に依頼され、オーストラリアでの試合の開催やゴルフコースの新設などをお手伝いし、挙句の果てにそのコースの横に住居を構えることにもなりました。本業の大学に関しては計40年間にわたり日米の高等教育機関に奉職しましたが、もともと研究・教育の分野は人生設計にはなかった僕ですので、そのほとんどを行政管理者・運営者として学内外の改革などをやってきました。
68歳の春に伴侶を失いました。それまで全力疾走してきた僕は途方にくれ、独りでオーストラリアの家に行き、人生を振り返っていました。その時、人生でやりたかったけど、出来なかったことは何だろうという自問をしてみました。すぐ思いついたのは飛行機の操縦とピアノでした。その一時間後には近所の空港のフライトスクールでレッスンを開始し、69歳で自家用機の免許を取得と同時に1機購入しました。以来6年間、毎年のほぼ半分を南半球で、朝は主にアクロバット飛行などをやってグレートバリアリーフの上を飛び、午後はゴルフという生活を送っています。COVID-19による入国制限のため、オーストラリアには昨年3月以来帰れない状況ですが、年末年始には戻れそうな気配です。
残念ながらピアノは指が全く動いてくれないので、今のバンド活動でのギターのさらなる上達を目指しています。これもコロナのおかげで、ライブができず活動休止中です。
世界中でICUの卒業生に会いました。その多くが極めて個性的で独自の道を歩んでおられました。未知のことに絶えず挑戦しながら生きてきた僕は、そういう人生を可能にしてくれたICUの教育と、そこでの人々との出会いに感謝するとともに、志を持った若者が一人でも多くあのような教育を享受することができるよう、母校のますますの発展を祈念しております。