アラムナイ・ストーリーズ第3回 – ダニー・ハさん
ダニー・ハさんは1993年から94年にかけてICUに交換留学をした元OYR(One Year Regular student)です。現在はニューヨーク在住で、Aberdeen Asset Management社のU.S. Counselを務めています。この4月には、JICUFの理事に就任する予定です。
「ICUに留学してから25年もたったとは信じられません。まるで化石ですが、その一方で、世界は当時とそれほど変わっていないとも思います。北朝鮮の核問題は今も続き、アメリカは貿易摩擦を抱え、日韓関係は25年前とほとんど同じです。マサチューセッツ大学で2年間日本語を学んだ後、OYRとしてICUへの交換留学を申し込んだときには、おそらくこうした世界情勢はまったく認識していなかったと思います。
1993年当時、日本語はかなり人気のある外国語でした。全米、全世界で、日本企業は多くの資産を買い占めていました。日本は米国の言いなりになりすぎだと主張する『NOと言える日本』という本が流行っていました。再生した日本が世界を席巻すると考えられていました。大学では、日本語の1年目の授業を取っていた同期120名の約半分が経済的理由で日本に関心を持ち、残り半分がアニメ、空手、茶道などにはまっていたと思います。2年目が終わる頃には、日本語学習者の数は40名ほどに減り、そのうち4名が日本に交換留学しました。
マサチューセッツ大学はいくつかの日本の大学と交換留学協定を結んでいました。その年は上智大学の人気が高く、すべての学生が上智に行きたがっていました。私は日本語の先生に、ICUに行かないかと聞かれました。ICUに応募した学生はおらず、誰かに行って欲しかったのです。私は「行きます!」と答えました。
日本語を学んだ2年間に合計2時間ほどしか日本語を話していなかった状態で、成田空港に到着しました。まず、入国審査官に日本語でパスポートの提出を求められたときにショックを受けました。次にショックを受けたのは、ICUの寮に手荷物だけで到着し、宅配便に預けた荷物が翌日まで届かないと気づいたときでした。日本で過ごした1年間、このような誤解は日常茶飯事でした。その日初めて出会った第2男子寮の仲間たちは、私のために布団や、翌日の入学式で着られる清潔なシャツを探してきてくれました。入学式では、自分の名前が呼ばれたときに「はい!」と真面目に返事をしました。(このときも、公で日本語を話さなければならないことに大きな衝撃を受けました。)
ICUではずっと第2男子寮に住んでいました。2MDは、それまでに住んだどんな環境とも違いました。30人ほどの日本人学生と、米国、アジア、ヨーロッパからの8人の留学生が暮らしていました。ルールは単純でした。各寮生は毎週2時間、寮のオフィスを管理し、1ヶ月に1回風呂場の掃除を担当することになっていました。部屋のドアや机の引き出しには鍵がなく、プライバシーは尊重されていたものの、アメリカの学生寮と比べると仲間との共同生活という側面が強かったと思います。夜遅くまで、日本人とは、アメリカ人とは、韓国人とは何かについて、また将来の夢や世界の進むべき方向について、話し込んだこともあります。寮生の間には特別な仲間意識がありました。日本では珍しくないのかもしれませんが、アメリカではあまり経験したことのないものでした。
第2男子寮は非常に日本的な組織でもありました。毎年、春に新入生を迎えるとき、上級生はイニシエーションを行うか否かを相談しました。イニシエーションは、実際とは正反対に、寮の戒律が厳しいふりをするというものでした。賛否両論ありましたが、全員が合意しなければイニシエーションは行わないというルールでした。寮生は一週間、夜遅くまでミーティングを重ね、議論しました。これがアメリカだったら、投票して終わりだったと思います。私は2日間参加しただけでしたが、日本式の意思決定と集団思考を経験した貴重な機会でした。
寮以外の思い出には、JLP(日本語教育プログラム)があります。先生方は、日本語のあらゆるニュアンスを情熱的に、献身的に教えてくださいました。せっかくの機会にもっと真剣に勉強しなかったことが悔やまれます。また、クラブやサークル活動を抜きにしては日本の大学は語れません。テニスサークルから脱落した後、秋にグリークラブに入り、春には日本民族舞踊クラブに入りました。
ICUで過ごした時間が自分にとって特別な意味を持つのは、ICUが様々な国籍や文化的背景を持つ人たちが共に学び、食べ、暮らし、笑う場と環境を提供してくれたためです。そこでは世界観の違いは関係なかったのです。日本語の授業で、米について議論したことをいまだに覚えています。その年は貿易摩擦と米の不作により、日本は米を輸入することになったのです。公正貿易、伝統、米の質などについて熱い議論が交わされたのですが、バングラデシュからの留学生が、自分はバングラデシュ米が一番好きで、日本米とカリフォルニア米は同じ味がしてどちらもまずく、区別ができないと言いました。当時バングラデシュ米を食べたことがあったかどうかは覚えていませんが、この発言は印象に残りました。人の意見に耳を傾けること、どんな人も自分と同じ人間であること、固定観念に囚われないことなどを考えさせられたのです。
マサチューセッツ大学に戻ってからは歴史を専攻し、その後シカゴ大学で日本史を学びました。学問の探求はこれで終わり、その後は法律の道に進みました。以来、日本語を実用目的に使ったことはなく、特にキャリアに役立ったわけでもありませんが、ICUに留学していなければ、これほど深く異文化を理解することはなかったと思います。」
ダニーさん、ありがとうございます!4月からよろしくお願いします。