アラムナイ・ストーリーズ第5回 – 水上郁子さん・廣志さん
水上郁子さん・廣志さんは、ICUの1期生です。現在は南カリフォルニア在住で、地元の同窓会支部の活動に活発に参加されています。今月はお二人にICUでの思い出を紹介していただきます。文章はお二人の共作で、1950年代の貴重な写真も提供していただきました。
「ある生物専攻1期生の4年間」
福田郁子と水上廣志は1953年に最初の科学専攻の学生としてICUに入学し、1957年に卒業しました。郁子は一年早く、ICU語学研修所の学生でした。これは,我々がICUにいた時の写真物語です。ICU を卒業後2人ともアメリカに渡り、大学院を経てPh.D. をとり、現在はアメリカの市民です。
ICU は壮大な自然の敷地の中で始まりました。そこでは小鳥達が森でさえずり、乳牛が牧場にたむろし、そして蛙たちが小川で鳴いていました。いくつかの教授のための家と古い茶室の他に、大きなコンクリートの4階建(本館,写真1)と壊れかけた大きな飛行機の格納庫が、大沢の片田舎にたたずんでいました。終戦後10年足らず、この静かな自然が若い学生たちに揺り動かされて,これからの素晴らしい活動を目指して一歩一歩踏み出す所でした。
本館の4階は広いホールで、大勢の人が集まる会場に使われました。1952年の春に第1回 語学研修所の入学式(写真2)、1953年には第1回国際キリスト教大学の入学式 (写真3)が行われました。この時には、来賓のお客様、教授、ICU 関係者に加えて、我々新入の一年生(198人)で 、ホールは溢れるほどでした。
新入生の中で科学専攻の学生はG組に編成されました。このグループは、内心天才を自負する学生達からなっていたので、静かに座って正しい英語を話そうとしたりするのは苦手でした。G組は学内でも目立った存在で、先生方の気遣いと苦労が偲ばれました。
東京の近くでは、広々とした所で勉強するためには、毎日そこまで通はなければなりません。我々は中央線とバスに乗って通学しました。バスは ICUの校庭の入り口で学生たちを降します。そこから校舎まで、舗装された将来桜並木通りになる長い道を歩きました。学校の帰り道,その道を“バスが来た!”との先に行った友人のかけ声で、何度も駆け出して通ったことです。大分経ってから、バスは教会の近く迄来るようになりました。
1955年に、期待されていた女子寮と男子寮(写真4) が開かれました。幸いなことに、二人とも入寮できました。ひと部屋4人で、二段ベットが二つと机が4個入っていました(写真5)。学生達は、自分達の洗濯物を洗って外にある干し場に下げました(写真6)。ある学生が,家から送ってきた ソーセイジのリンクをそこに干した所、野良犬が引っ張って持って行ってしまったという逸話が残っています。
寮と同時に食堂も建てられました。しかし朝広志が起きた頃には、食堂はもう閉まっていましたので、廣志は朝ごはんぬきの日が多かったです。食堂の食事は、そんなに悪くないのですが、日曜日の夕食は、昼に出される夜食のかわりのサンドイッチ だけでした。そのサンドイッチは、大抵午後早くに消えていました。そこで廣志と同室の友達は、よく内緒で 部屋で夕食を作ったものです。
写真 7の5人は、ICU 一期の生物専攻の学生です。(実際には6人いて,彼は後で加わりました)自然科学部長の篠遠教授は、名の知られた遺伝学者で、良く我々を夕食に招いてくださいました(写真8)。生物の実験に必要な材料(例えば色々な植物の部分や蛙など)は校庭に豊富にあり,採集と稱して授業時間に教室の外に出て楽しんだものでした。郁子の卒業論文は篠遠先生のもとで、“茄子を使っての炭水化物の移動の追及”(写真9)、 廣志のは永井敏夫先生の指導で、ゾーリムシ (Paramecium) の呼吸に関する研究でした。廣志は手製の電機器具と顕微鏡で、ゾーリムシが水の中で酸素を交換していることを証明しました(写真10)。
始めの頃のICUには牧場があり、美味しいミルクを出すJergey種の牛がたむろし(写真11)、広い野原ではソフトボールを楽しみました(写真 12)。課外活動として我々2人は,ICU グリークラブに参加して,手製のクラブ旗を背景に数々の演奏会で歌いました(写真13)。ICU の教会でも歌いました(写真14)。廣志のバスケットボールのクラブは、あの古い格納庫で練習をしていましたが、 ボールがすぐに荒いコンクリートのために傷んでしまって、長いこと続けることが出来ませんでした。他校との試合も試みましたが、その結果は発表するに忍びません。スキーも楽しみのひとつでした(写真15)。
4年間はいつのまにかすぎて、卒業する時がきました。卒業式のあと、6人の生物専攻の学生が正装したのと (写真16)、湯浅総長,篠遠教授 他の教授に入っていただいた卒業写真をとりました(写真17)。
卒業生のうち,3人は日本に留まり、われわれ2人はアメリカの大学院に行く事になりました。8月の中旬、飛行機代は高価でしたので、小さな貨物船に乗ってカナダのヴァンクーバーに向けて旅立ちました(写真18)。当時、日本には輸出するものがなく、カナダからの木材の輸入が目的で、貨物船は6人の船客を乗せて出港しました。郁子と廣志が将来を見つめている写真がとれました(写真19)。2週間の船路中に2-3頭の鯨を見ただけで,ヴァンクーバーに着き、そこから鉄道で、郁子はイリノイ大学の植物学部に、廣志はペンシルヴァニア大学の生物物理学部に向かいました。イリノイに行くまでの2晩を客車の中で過ごし、イリノイからペンシルヴァニアに行くのに、また2日かかりました。つくづくアメリカは広いと実感しました。
のちに廣志はイリノイ大学の生物物理学部に移り、郁子と結婚しました。学位を取ってから、長い教育と研究生活を経て引退し、現在は息子家族がいるRose Paradeと Rose Bowl で知られているカリフォルニアのパサデナに住んでいます(冒頭の写真)。
水上郁子さん、廣志さん、ICU初期の思い出を共有していただき、ありがとうございました!