アラムナイ・ストーリーズ第6回 – ブロノフスキー村中智津子さん
今月の「アラムナイ・ストーリーズ」は、ブロノフスキー村中智津子さん(ID88)にご登場いただきます。村中さんはICUで国際関係を学んだ後、英国の大学院でコミュニケーションと国際ジャーナリズムの修士号を取得し、長年ジャーナリストとして活躍しました。ニューヨークに10年以上住んだ後、スイス・ローザンヌに移住、現在はフリーランスの通訳・翻訳者として活躍しています。
心の原点、パラダイムシフトで成長
ICUは小宇宙。個性あふれる学生や教員が星のように光り輝いていた。
滑走路をトンネルのように囲む満開の桜並木に導かれ、入学式では教会で 世界人権宣言に署名した。生まれて初めての署名。「新しい大きなことが始まる」という予感は的中した。
鎌倉の漁村近くで育ち海が心の友だった。 女子が教師に疑問をぶつけるとは生意気だと評価が下げられ、東大への入学が是とされる硬派の公立教育の中で疑問を感じることが多かった。政治に興味があり、英語は得意科目でも英文学や英語学には興味がなく、言語は道具にしたいという気持ちに一番マッチしていたのがICUだった。
小さい頃から海外で暮らしたい、違う文化に接したいと強く願っていた。帰国生のセクションメートと接し、彼らの流暢な英語と異質なものを受け入れる気質が新鮮だった。秋には英語と日本語のチャンポン で自信たっぷりに意見を言う9月生にさらに驚き、ノンジャパ、半ジャパというICU用語にもなれた。
これまでは意見を言うと周りから「変わってるね」と言われていたが、ICUでは「皆が変」で心地よかった。ある日、ニューヨーク育ちの一年上の京子から「 敬語は使わなくていいよ。同じなんだから」と言われた。バカ山がひっくり返るほどの衝撃だった。価値観がひっくり返った最初のパラダイムシフト。
鎌倉から片道3時間の「通勤」は苦痛で時間の無駄だった。寮に入るには近すぎると拒否されたため、入学から3か月後に同じ高校からの同級生恵美ちゃんと上連雀の8畳2間のアパートに同居した。毎朝近所のパン屋で交代でバイトした後に自転車で登校。生活は授業とモダンダンス・ソサエティー(MDS)での部活、夜は自炊と自転車で20分内のキャンパス生活中心となった。
文武両道は出身校、神奈川県立湘南高校のモットーだったが、まさにwork hard, play hardを実践した。 好きなことを選んでひたすら学び、遊んだcarefreeの時代が眩しい。村上陽一郎教授や横田洋三教授や長清子教授の授業は知的パラダイムシフトだった。授業の後には頭と心の空間が広がり、まさに跳躍した 。文字通りの跳躍は課外活動。舞台がもう一つの生活の場だった。
客席と息づかいを同じくし、皆で一つの空間を作る舞台の魔法に魅せられた。モダンダンス部の公演「ピーターパン」で海賊フックを演じ、ヘビーメタルの音楽に合わせて振付とダンス。 またメロディーユニオンにも加わり歌い、ミュージカル「ロッキー・ホラー・ショー」出演も忘れられないハイライトだ。 授業を欠席しないというモットーを守り、レオタードの上に薄いカバーを着て出席して教授に注意もされた。また学外の人に会う好機と思い、国際政治問題を討議する十大学合同セミナーに参加した。学年や学校の違いを超えたチームワークは楽しく 友人にも恵まれた。
舞台もやり尽くし、ICU生活も狭く感じてきた3年次、念願の米国留学が実現できた。 横田先生の勧めもあり1986年晩夏、マサチューセッツ州立大学アマースト校に向かった。
それから10か月 、アメリカの社会の光と影を体験した。留学先はZoo Mass という俗称通りの動物園。学生は見ものたっぷりだった。ルームメートのスーは金髪をスプレーで固め目は青とピンクのアイシャドウが濃い17歳。スーは「チヅコは初対面の私に驚いて座っていた椅子から飛び上がった」と笑った。 同じキャンパスでも寮の場所が違うだけで政治的な嗜好や服装も違う。白人ファンが多いボストン・レッドソックスと黒人ファンが多いニューヨーク・ヤンキースの野球中継の後の人種騒動で警察がキャンパスに入ったこともあった。夜のキャンパス横断時には警備サービスもあり、ICUでは想像もできないことばかりだった。
英語を話さなくてもいいと思い体育ではスキューバダイビングとジャズダンスの授業をとった。ボストン出身で家族で初めて大学進学したという黒人の女生徒と一緒のクラスでは、有色人種は黒人の先生と彼女だけだった。授業後、鏡の前で3人で踊った。ダンスは喜びと葛藤を表現する手段だと感じた。 アルビン・エイリー舞踊団のキャンパスでの公演に興奮したが、ある白人学生から「君は黒人になりたいの」と言われ、なぜそういう考えになるのだろうと戸惑った。
留学先を決めた大きな理由は、アマースト・カレッジを含めたマサチューセッツ州西部パイオニアバレーの名門5大学の授業が受講できることだった。他のカレッジは少人数で落ち着いていて、学生の知的興味やレベルもICUと似ていた。バスで通いZoo Massを離れるのも心地よかった。
アマースト・カレッジではカーター政権で外交政策に携わり後にクリントン大統領の国家安全保障顧問となったアンソニー・レーク教授のセミナーを受講し、当時のレーガン政権の中南米政策の批判的な分析にまた心と頭が踊った。ハンプシャー・カレッジでは「広島と長崎への核爆弾投下は地上戦での死傷者を減らした正しい選択だった」という学生の意見に英語でどう反論して良いか分からず「反論しないことは肯定ではない」とも言えず、被爆者を考えると悔しさで胸がいっぱいになり涙が溢れた 。
常に新しい場所、新しい刺激を探していた。長距離バスで出かける大都会マンハッタンはブロードウエーやダンスクラス、美術館と輝いていた。しかし友人の紹介で泊めてもらったスパニッシュハーレムに住むジョニーの家はお母さんが風呂場で手と足で洗濯していた。タクシー運転手のお父さんはソファーで寝て、ティーンマザーとなったお姉さんは家を出ていた。居間の古いピアノを弾く7歳の妹ラケルを皆がストリートから守って育てていた。
UMassではジャーナリズムや女性学を専攻し、記者気分でいた。アマーストやニューヨークで見たことや感じたこと、光と影を伝えたいという気持ちが高まっていった。10か月経つ頃にはアメリカ社会の広さと深さにはまり、さらに飛翔する自分を感じ、とどまりたいという思いでいっぱいだった。ニューヨークからの飛行機の中で涙を流しながら帰国し、日本の保守的な家庭に戻ったが、家族もアメリカナイズされた娘が半分ヒッピーになって戻って来たのに驚いた。
四年次秋に戻ったICUは、自宅から週に数日通学していたこともあり心地よいものの小さく感じた。 英語のコミュニケーション手段としての重要性を追求するため に斎藤美津子教授の通訳クラスを受講し、専攻の国際関係では横田先生の指導で卒業論文「米国のユネスコ脱退」を仕上げて、キャンパス生活が終わった。
通訳の訓練は卒業後も斎藤先生の主導で続けたが「自分の言葉で語る」ことを大切にしたいと思い、まずソニーに就職してテレビの国際マーケティングを体験した。仕事のやりがいも感じてきた2年目、英国留学という条件付きでロータリー奨学金を受給し、レスター大学マスコミュニケーション研究所で コミュニケーションとメディア分析を学び修士号を取得した。その後はロンドンの大学院でジャーナリズム修士号を取得し、TBSヨーロッパで助手アルバイトをして生活費を稼ぎながら、卒業後は特派員助手兼衛星版記者として読売新聞ロンドン総局に入って新米記者となった。 取材を通じて英国の伝統と歴史に触れ、社会的、文化的にある種のfinishing schoolを終えた気持ちだった。また離れたところから見る日本も魅力的になってきた。
東京に戻り読売英字新聞部の記者となったが、また外に出て新しい分野に行きたいという気持ちで1997年フジテレビのニューヨークの現地子会社に転職し、本社幹部へメディア戦略の分析をするほか米国の放送文化やニューヨークの文化のコラムニストとなった。憧れだったニューヨーク生活を謳歌して、大手ネットワークCBS直営局の女性初のセールス 局長だった女性に紹介されたオーストラリア人と結婚。そして出産。2009年秋の著書「ニューヨーカーはどこまで強欲か」(扶桑社刊)がニューヨーク生活の卒業論文となりローザンヌに居を移した。
初めてフリーとなり、 通訳を主な仕事とするようになりジャーナリストとはまた違う立場で外交やビジネスの最前線や舞台裏のスリルを味わっている。昨年の国連人権理事会でユニセフ事務局長となったレーク教授のスピーチを 同時通訳する時には不思議な縁を感じた。
「自分は何か、何が自分らしいことなのか」。 組織がなくなった今、さらなる課題。原点はICU。もし戻れたら、寮生になって数年間、好きな授業と舞台活動をしたいなと夢を見る。
村中さん、ご協力いただきありがとうございました!