アラムナイ・ストーリーズ第7回 – 森田宏子さん
森田宏子さんは、1977年にICUを卒業しました。2015年末、国連での30年以上のキャリアに幕を閉じ、現在は日米両国で学生アドバイザーを務めたり、講義や執筆活動を行っています。現在はコネチカット州在住。ICUでの思い出について語っていただきました。
「ICUで学んだことがグローバル社会で活躍する基礎を作ってくれた」
私は4年半過ごしたニューヨークを離れ、9月生としてICUに入学した。日本で大学に進学することに決めた理由は自分のアイデンティティーとしての日本をもっと知りたかったからである。フレマンのセクションメートのようなグループがあった4月生とは違って、9月生は最初の2学期間の必須の体育の授業以外はあまり群がることもなく、個性が強いセプテンバー同士は英語と日本語をちゃんぽんで話すのが特徴だった。
両親がまだ海外だったこともあって、私は第2女子寮に入ったが、想像していなかった様々なカルチャー・ショックを受けた。まだ携帯のない時代の電話当番、自分の部屋だけではなくトイレやお風呂場の掃除当番、夜10時の門限、プライバシーのない生活に簡単には慣れなかった。しかも翌年春に創立以来初の授業料値上げに反対した学生闘争の女子の中で中心になったのは第2女子寮の哲学や政治を専攻する先輩達だった。本館を占領し、出入り口を積み上げた椅子で塞いだりしたため、大学はまる1ヶ月閉鎖になった。そのような動きに納得出来なかった私は閉鎖前に寮を出て、遠方の祖父母宅から通うようになった。
ICUでは語学科のコミュニケーションを専攻することにし、斎藤美津子先生やジョン・コンドン先生の授業を中心にとった。後に国連に入ってから大いに役に立ったスキルを身につけたのは1年間集中的に学んだ同時通訳のクラスでだった。毎週金曜の午後3時間みっちりしごかれたが、休み時間に素早くエネルギー補給をするためにチョコレートを持ってくるように言われたのは印象的だった。同時通訳の訓練はまず正確に英語を話すニュースキャスターの喋っていることをなるべく同じペースで繰り返すことから始まった。通訳の特訓に入ってからは斎藤先生がおっしゃった『言葉でなく、メッセージを訳しなさい』という名言が後に国連会議のノート取りやスピーチのまとめに大変役に立った。英語でも日本語でも、私の第3言語のフランス語の討論を聞いていても英語で要点をまとめられるようになったのはその特訓のお蔭だ。同時通訳の授業で、国会の答弁をビデオで見ながらクラスの前で一人一人が通訳をする練習をしたのをよく覚えている。当時政界を賑わせていたのはロッキード事件。最近の国会やアメリカ議会の答弁を聞いていると政治疑惑の中心的人物は「記憶にございません」と当時と同じようなこと言うと思う。
3年生の頃から社会科学の分野の外交、国際関係などに興味を持つようになり、上智大学から講義にいらしていた緒方貞子先生の授業にかなり感化され、卒業論文はコミュニケーション知識も生かして『外交交渉スタイルの日米の比較』を書くに至った。
ICU時代はキャンパスの外で大変有意義な社会勉強もできた。当時の東京は国際会議のブームで、サイマル社のリクルーターが語学堪能で知られていたICUに学生バイト候補者を探しに来た。1日1万円稼げたバイトは1週間もやればいい稼ぎになり、それを元手に友人たちと休暇中日本各地のユースホテルを旅して回った。会議内で学生は受付、同伴者のための観光の付き添いや会議場内での使い走りなどに使われた。卒業に必要な単位はすでに取得して論文だけになった4年生の頃、「国際会議研究所」という小さな事務所でほぼフルタイムで働いた。そこで学んだ会議準備のノウハウの基本は国連の仕事でも大いに役に立った。
卒業後は再びアメリカに戻り、デンバー大学院で国際関係を学んだ。ちょうど進学を控えた頃、緒方貞子先生が初の国連日本代表部の女性公使になられることになり、国連に関心を持ち始めた私は、国連を目指すにはどうすればいいか相談に伺った。先生は国連が60%以上の予算をつぎ込んでいる開発を勉強すべし、休みにはインターンに応募して、その後ジュニア・プロフェッショナル・オフィサー(JPO)を目指しなさいと大変有意義なアドバイスをくださった。緒方先生のアドバイスを実践した私は修士取得後の秋、中南米で唯一の最貧国のハイチに赴任することになった。
ハイチでの2年間は、国連キャリア(35年間)でずっと開発問題と向き合ってきた私の脳裏に常にあった。自分の目で見、肌で感じた開発の難しさを直接体験したことや感じた矛盾は、国連会議や書類上に出てくる貧困問題に現実味を与えてくれた。その後ニューヨーク本部で開発のための科学技術や持続可能な開発、小島嶼国問題などを扱う部署で色々な業務に携わった。最も印象的だったのが事務局チームの一員として首脳レベルの国連の国際会議と様々な場所での準備会議のサポートを行ったことである。2002年のヨハネスブルグ・サミット、2012年のリオ+10会議、そして事務局でも中心的責任を担った2014年のサモア小島嶼国会議の3回である。私が立ち上げ、関わったプロジェクトの中にはそういったグローバルな会議でまとまった合意内容を実行したものもある。例の一つは、南太平洋、インド洋、カリブ海、地中海のドーナーを含めた7つの小島嶼国に位置する地域大学や国立大学が共同でつくりあげた「小島嶼国のための持続可能な開発分野の共通修士プログラム」。それぞれの大学の学生が所属大学のクラスに加えて他の6大学の講義をオンラインで受けることができるというのは画期的なことだった。
このように、大変ながらもやり甲斐のある仕事を続けながら、3人の子育てをした苦労と喜びにあふれた体験談を 「仕事とわたし、どっちが大事なの?国連ママの子育て記」という本にまとめ、2017年に文藝春秋から出版した。日本でも、女性は子育てのために仕事をあきらめないでほしい、母親が働き続けられる環境も周りの意識も良くなっていってほしいとの思いからである。
森田さん、ありがとうございました!