アラムナイ・ストーリーズ第9回ーダレル・クラウセンさん
ダレル・クラウセンさんは1970年代に本科生としてICUで4年間学びました。現在は南カリフォルニア在住で、地元の同窓会支部に深く関わっています。今月はクラウセンさんが、ユニークなICUストーリーをシェアしてくださいました。
同窓会に顔を出すと、多くの同窓生が、ICUでの教育がいかにその後の充実した人生に繋がったかを語ります。それぞれが自分の人生に誇りを持っているのが分かります。彼らの多くは研究機関、政府機関、あるいは非営利団体で活躍してきた人たちですが、こうした組織に勤めてこなかった同窓生は、どんな人生を歩んできたのでしょう?私はその一人ですが、ICUでの教育は、私なりに人に奉仕し、社会に貢献する貴重なツールを与えてくれました。
私が初めて日本を訪れたのは、1969年のことです。九州にあった米軍の情報機関に赴任したのです。そこでバイクを買い、地元の農家から家を借り、九州産業大学の学生と友達になりました。大家さんとこの学生と私は仲良くなり、3人で釣りやボーリングを楽しんだり、元旦を一緒に過ごしたりして、私はすっかり日本文化の虜になりました。1971年に任期が終了したとき、貯金を使って6畳間を一月7,500円で借りることにしました。その冬は、灯油コンロと野良猫だけを友に、コタツで日本語を勉強しました。当時卵は10個で100円、いなり寿司は1個20円でした。このとき、なぜICUに行きたいと思ったのでしょう?
私はカリフォルニアの高校を卒業してからハワイ大学に進学し、英語とロシア語を専攻しました。しかし経済的に困窮し、一年通った後、カリフォルニアに戻らざるを得なくなりました。カリフォルニアではアルバイトで生計を立て、友達と一緒に住みながら、フットヒル・カレッジという2年制大学に通いました。しかし学業にも、特定の分野にも熱意はなく、落第しました。徴兵されてベトナムに送られるのを避けるため、陸軍秘密保全庁に4年間勤め、タイ東北部で1年間過ごしました。そこで同じような年齢のタイの若者たちと親しくなり、タイ語で日常会話ができるようになりました。タイでのポジティブな体験が、その後の日本での生活の基礎を作ってくれたと思います。
ICUに入学したのは1972年9月、25歳のときでした。キャンパスの近くにあった「豚小屋マンション」と呼ばれる建物(養豚場の前にあったため)の4畳半を借りました。ハワイ大学から一定数の単位を編入し、異文化間コミュニケーションを専攻し、1976年4月に卒業しました。ICUでもっとも影響を受けたのは、当時の英語学科長のリンディ教授と、ジョン・コンドン教授でした。学位取得後、ただちに東京のASI Market Research社に就職したため、卒業式には出席しませんでした。ASIは広告・マーケティングのために日本人の価値観や行動を調査する会社でした。最初は日本語の文献を英語に翻訳していたのですが、すぐにコンドン先生の4つの異文化間コミュニケーションのテーマ、すなわち言語、非言語行動、価値、推論パターンを活用するようになりました。
ICUを卒業した時、私には2つの目標がありました。人に教えることと、高収入を得ることです。調査結果を、ネスレ、ユニリーバ、プロクター・アンド・ギャンブルなど欧米の一流多国籍企業に提供することで、私はある意味「教師」になり、高収入を得ることにも成功しました!間もなく、ICUの同級生で香港出身のヘレン・チョイと結婚し、その後上智大学で国際ビジネスの修士号を取得しました。
ICUでは文化的意識や異なる価値観を学び、それらを自分の成長に役立てました。日本で学び、自分の人格を形成した価値観を人と共有することによって、私はあらゆる国籍の人々の間のコミュニケーション・ギャップの橋渡しをしてきました。コンドン教授は著書「Intercultural Encounters with Japan」(1974年)で、「異文化間コミュニケーションを科学として学ぶよりも、各人にとって異なる意味を持つアイディアや経験を共有することによって、はるかに多くを学べるかもしれない」と述べています。コンドン先生とエドワード・ホール先生は、人間は互いにコミュニケーションをとるとき、実は何をしているのかよく分かっておらず、異文化間コミュニケーションは各自が自分について知らなかったことを認識するという、セラピーのようなものだと考えていました。
1980年に妻と私は日本を去り、ロサンゼルスに引っ越しました。ヘレンは旅行業でキャリアを積み、私は様々な仕事をしました。その一つは、パシフィック・ステーツ大学で日本の学生を教えることでした。この大学は、日本のトップ大学の入試に落ちてしまった日本の学生が多く通っていた私立大学です。親御さんたちは、子供達がここで英語をしっかりと身につければ、次の年の受験がうまくいくと考えていました。学生にはあまりやる気がありませんでしたが、私は自分の人生を元に、彼らにとって人生はこれから始まるのだと示し、その結果希望と自信を与えることができたと思います。
1982年には日本の包装会社の米国内営業部長になり、その4年後にはシグマ・グループという、エルサルバドルとメキシコに拠点を置く同業のより大きい会社に移りました。1992年からは在米日系企業に対し通信サービスを販売する仕事に就きました。このように、私は3つの異なるキャリアを経験しました。そのいずれにおいても、ICUで受けた教育は、私の人生を豊かにし、私が仕事を通じて出会ったすべての人々にも影響を与えました。日本の外にいる人の多くは、日本での生活がどのようなものか想像がつきませんが、私が出会った人々にとって、私は日本をよく知る唯一の知人だったのです。
ヘレンは自分の旅行会社を設立し、1998年に私もそこで働くようになりました。以後20年にわたり、何千人にも及ぶアメリカ人の観光客をアジア14ヵ国に送り込んできました。2013年に退職してからは、フルタイムで小説の執筆に取り組んでいます。初めての出版作品の「Flower Soldier」は、2015年にアマゾンで発売されました。私の日本での体験によく似た、驚くような異文化間のラブストーリーです。
「未来に何が起こるかはわからず、現在と未来の点を結ぶことはできない。過去に起きたことの点と点を結ぶことしかできないのだ。だから、これまでの点が未来の何かにつながると信じるしかない。直感、運命、人生、カルマ – 何でも良いが、何かしら信じなければならない。」ジョン・コンドン
ジョン・C・コンドン博士は現在ニューメキシコ州在住で、コミュニケーション、文化、異文化関係についての18の著書がある。一部の作品は5つの言語に翻訳されている。2014年初めから、友人であった故エドワード・T・ホール博士の生誕100周年に当たる今年中の出版を目指し、同氏の研究についての本を執筆中。
リチャード・リンディ博士は1980年代後半に退職し、カリフォルニアに移住。私の最初の小説の編集を手伝ってくださり、10年以上前に亡くなった。