1860年代ラトガース・カレッジに吹いた「日本旋風」と ベンジャミン・デューク国際基督教大学名誉教授
東洋学者ウィリアム・エリオット・グリフィスは、南北戦争終結後間もない1866年からの10年間に、米国ニュージャージー州ニューブランズウィックに「日本旋風」が吹くのを目撃しました。ある日、西洋の学問を習得し、祖国の近代化に寄与したいという熱い思いを抱いた徳川幕府の若い武士2人がラトガース・カレッジに現れ、その後100人以上の日本人がこの地で学ぶことになったのです。
国際基督教大学(ICU)名誉教授のベンジャミン・デューク博士は、40年間にわたるICUでの教員生活を終えた後、9年間日本国際基督教大学財団(JICUF)の理事を務めました。理事在任中、博士はニュージャージーで学んだ日本人留学生の遺産について本を執筆しました。デューク博士はICUで過ごした最後の数年、図書館で長時間にわたる研究をし、著書”The History of Modern Japanese Japanese Education” (ラトガース大学出版、2009年)にまとめました。その研究過程で、それまであまり知られていなかったニュージャージーの侍留学生のルーツを知ったのです。
博士の数々の興味深い発見の一つに、1860年代から70年代にかけて日本からニュージャージーに渡った100人の留学生が2つの渡航ルートを辿ったことがあります。一つはアメリカ・オランダ改革派教会の宣教師が開設した、長崎から直接渡航するルートでした。ペリー提督からの圧力で徳川幕府が調印した1854年の日米和親条約をもって鎖国は終わり、宣教師らは1859年に日本への上陸を許されていました。もう一つは1865年に15人の薩摩藩士が辿ったルートで、薩摩からまずロンドンに渡ってユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(後のロンドン大学)の科学部で2年間学んだ後、ラトガース・カレッジに渡り、長崎から辿り着いた同志と合流するというものでした。奇遇にもデューク博士はICUを休職してロンドン大学に留学し、江戸時代の専門家であるロナルド・ドーア教授の指導の下、博士号を取得しています。
デューク博士は、日本の教育に関する本を7冊執筆していますが、最後に執筆した”Dr. David Murray: Superintendent of Education in the Empire of Japan 1873-1879” (ラトガース大学出版、 2019年)は、ラトガース・カレッジでのダビッド・モルレー博士と日本の若侍との出会いから始まります。数学の授業で日本人留学生と出会ったモルレーは、彼らの「飲み込みの速さ、学問への適性、高潔な志」に深い感銘を受け、祖国を遠く離れた日本人の若者たちの交流の場として自宅を開放しました。モルレーは若い彼らを「礼儀正しく、優秀かつ勤勉で模範的」と評しています。
1872年、明治政府は50名の使節団をワシントンに派遣し、米国との外交関係構築の交渉を行いましたが、それと同時に、新政府による初の公立校制度を整備するため、文部省の顧問を務める西洋人も探していました。モルレー博士はラトガース・カレッジで指導していた日本人留学生から武士を教育する藩校について聞いており、強い関心を持っていました。モルレーはワシントンで使節団と面談し、7,200ドルの年俸で文部省の学監として招聘されることになりました。デューク先生は、1960年代のICUでの年俸が4,800ドルであったことと比較すると、これがいかに破格な待遇であったかがうかがえると語っています。
同書の第2部は、日本国学監として新政府を支えたモルレー博士の5年半に焦点を当てています。中でも、ラトガース・カレッジで息子のように目をかけていた侍学生の畠山義成が、文部省で博士の片腕として活躍しつつ、1874年に開成学校の校長に就任したのはこの時期のハイライトでした。開成学校で当時科学を教えていた2人の教員ウィリアム・エリオット・グリフィスとエドワード・ウォーレン・クラークもラトガース・カレッジ時代の博士の教え子で、畠山と同じく、優秀と名高い1868年の卒業生でした。開成学校はモルレーの助言に応じて改革され、1877年に東京大学に改名されました。モルレーは最高学府となった東大第1期生の卒業式で祝辞を述べています。
デューク博士の最新の著書の主な結論は二つあります。一つは、諸外国の教育機関の中で近代日本の教育に最も貢献した機関はラトガース・カレッジであったこと、そしてもう一つは明治天皇に仕えた外国人の中で日本の教育制度に最大の功績を残したのはダビッド・モルレーであったことです。この2点は、デューク博士がICU図書館で行った研究の成果であり、JICUF理事時代に執筆したモルレーの伝記に書き留めたことでした。