ICUサッカー部のはじまり
ICUサッカー部のはじまりについて、袁偉民(ユアン・ウェイミン・ジョージ)さん(1964年卒)にご寄稿いただきました。
ICUで過ごした4年半は、私にとってかけがえのない時間でした。記憶が色褪せないうちに、思い出せる限りのことを記しておきたいと思います。私にとって、大学時代の最も誇らしい思い出の一つは、サッカー部の設立に貢献したことです。
香港にある拔萃男書院のサッカーチームに入ったとき、私は15歳でした。私はゴールキーパーで、後に4年間キャプテンも務め、1960年8月にICUに留学するまで、様々なクラブチームで経験を積みました。今の日本サッカーがそうであるように、当時香港のサッカーはアジアでトップレベルだったため、私は競技サッカーに慣れ親しんでいたのです。
ICUにサッカー部がないと知ったとき、どれほど落胆したことか!日本人学生のほとんどは、サッカーというスポーツさえ知らなかったのです。本館の裏手には、埃っぽく乾いた土のサッカー場がありましたが、雨が降るとドロドロになりました。ゴールは3本の角材を組み立てたもので、ぶら下がったネットは地面に固定されていないという始末。まともに整備されていなかったため、ゴールの周りから小石やコンクリートの破片、時には割れたガラスまで拾わなければなりませんでした。ICUにサッカー部が設立され、関東大学サッカーリーグ3部に入った後も、 私たち選手は毎回試合の前に、石灰でラインを引かなければなりませんでした。
ICUサッカー部は設立当初から、多様な背景を持つ部員で構成されていました。私が1年生のときは、日本人の杉本さん、田村さん、溝井さん、香港の学生(サムエル・ンさんとトニー・ラムさん)、そして数名のアメリカ人学生が所属していました。その後数年間に、有馬さん、廣瀬さん、パプアニューギニアのルンビノさん、タンザニアのマンダニさん、そして香港の C.Y.・チョイんとダニエル・ファンさんが加わりました。
私は当時体育科の主任だった丹羽先生に、サッカー部を設立したいとお願いに行きました。先生は、クラブを作る前にまずは同好会を作る必要があると教えてくださり、私は早速有志を募り始めました。しかし1年目は、サッカーチームに必要な11人すら集まらなかったのです!
その後2年間に、新たな日本人学生や留学生が加わり、ICUに突如サッカーブームが訪れました。そして1963年に、ついにサッカー同好会が立ち上がりました。その夏、ICUサッカー同好会は、長野県の野辺山で初めての合宿を行いました。参加者は9名にとどまったものの、全員が真剣に活動に取り組みました。午前中は体力トレーニ ング、午後はパスやシュートの練習、夕食後はゲームをしたり、歌を歌ったりし、1週間という短い時間に私たちの絆は深まりました。合宿内容を丹羽先生に報告すると、その年のうちに部活として正式に承認されました。こうして初めてユニフォームを着用し、関東大学リーグ戦に出場することができるようになったのです。
2017年3月11日、妻と東京の親戚を訪れたとき、ICUサッカー部のOB/OGチームが練習試合をすると聞いて、観戦に行きました。私たちが始めたサッカー部の成長と発展を、どれほど嬉しく、誇らしく思ったことか!部員数が増えたばかりでなく、女性が選手として、役員として加わったことに感慨ひとしおでした。美しいグラウンドと更衣室にも目を見張りました。サッカー部の発展を可能にしてくれた私たちの母校と、代々の部員に感謝し、成功を心から祝福します。
また、この場を借りて、コロナ禍の困難な状況にもかかわらず、昨シーズン無敗記録を達成した現役部員たちに祝意を表します。これからもサッカーという素晴らしいスポーツを楽しみ、男女双方の日本代表チームが国際舞台で披露するような水準の高いプレーを目指してください。ぜひまたICUを訪れ、現役チームのリーグ戦を観戦したいと思います。今後の活躍に期待しています!
60年代のICUには、教会前とD館脇の2カ所にサッカーに適した芝生がありました。体を動かしたいときは教会前でドリブルをしたり、2本の木をゴールに見立て、友人らとパスやシュートの練習をしたりしました。古屋先生からは幾度となくお叱りを受けたものです。ある日私 は、本館に面したD館の壁にボールを蹴り、跳ね返りをキャッチすればゴールキーパ ーの練習ができることに気づき、それからほぼ毎週末、ときには放課後もその場所で練習をするようになりました。数ヵ月たった頃、トロイヤー先生に「その壁はサッカーの練習用ではない」と注意されたとき、私はICUにちゃんとしたトレーニング施設がないことを訴えました。立ち去る先生の背中に向かって、悔しさのあまり「まともに練習できる場所が必要なんです!」と叫んだことを、今でも覚えています。他に良い練習場所がなかったため、結局4年生になるまでその壁を使い続けました。
1965年3月に私がICUを卒業したとき、この壁の前には何もなかったと記憶しています。しかし1983年春に訪れたときには、そこに緑の葉をつけた小さな木が立っていました。その木が なぜそこに植えられたのか、私は知っています。それ以来何度も母校を訪れていますが、D館の壁の前を通り、その木を見るたびに、私は心の中で微笑みながら、あの頃の甘酸っぱい思い出に浸るのです。