JICUFスポットライト – ジャクリーン・ワシレウスキ理事
JICUFには現在12名の理事がいます。その一人、ジャクリーン・ワシレウスキ博士は、1990年から2008年までICUでコミュニケーション論を教えました。現在は米国メリーランド州在住の彼女を、同僚のアン・ラブがインタビューしました。
ジャクリーン(ジャッキー)・ハウエル・ワシレウスキ博士は、アイルランド、フランス、ウェールズ、マン島ゲール人、イギリス、オランダ、スイス、チェロキー・アメリカンのルーツを持ち、その多様な背景から世界の様々な文化に興味を持ったそうです。ICUへの道のりは、彼女のルーツと同じくらい多様な文化に彩られていました。
高校時代にAFSの交換留学生としてオーストリアのウィーンに渡ったのが、ジャッキーにとって初の海外旅行でした。学士号を取得するまでの経緯を振り返り、彼女はこう語ります。「6年間かけて、4つの大学(ジョージ・ワシントン、UCLA、ジョージタウン、ピッツバーグ)に通いました。ピッツバーグ大学にいたのは、ちょうど異文化間・多文化研究が始まり、SIETAR(異文化コミュニケーション学会)が設立された時期でした。」SIETARを通して、ジャッキーはICUの斎藤美津子先生、ジャック・コンドン先生、エド・スチュアート先生と出会います。後にこの3名が、ジャッキーがICUで教鞭を執る道を開いたのです。
ピッツバーグにいた時、ジャッキーはピーター・ワシレウスキ氏と出会い、結婚しました。ピーターは、「ペンシルバニア州の炭鉱町出身のポーランド・リトアニア系アメリカ人の地球物理学者で、東大の研究者と南極圏で調査」をしていました。ピーターはやがて東大で博士号を取得しました。その後何年も、ワシレウスキ家の食卓は、日本人の大学院生や大学教員とその家族で賑わいました。ジャッキーは彼らにピッツバーグを案内し、非公式に英語を教えました。
ジャッキーの人生の特徴は、一つのものを選択するのではなく、いろいろなものに挑戦してきたことだと言えます。ワシレウスキ夫妻は、ピッツバーグからワシントンDCに引っ越した後、メリーランド州コロンビアに移住しました。2人の息子を育てながら、多民族の料理を出すダイナーで副料理長を務めたり(料理長は日系アメリカ人の元大臣で、戦時中は日系人収容所に拘留されていました)、スペイン語教育開発センター職員や、北米先住民のための地域開発団体、Americans for Indian Opportunity(AIO)の職員など、多数のパートタイムの仕事を経験しました。AIOではその後フルタイムでも勤務しました。
こうした多様な経験が、エクアドルのインディオのコミュニティやパプアニューギニアの奥地での現場調査や、21日間かけて旧ソ連の13都市を巡る”Women for a Meaningful Summit”に参加する機会につながりました。このサミットでは、アイヌを含むアジア大陸の先住民に出会い、ロシア・中国・朝鮮半島と日本の複雑な関係に触れました。
これらの活動の合間に、ジャッキーは博士課程に進学しました。南カリフォルニア大学(USC)教育学部が多文化・異文化間研究の大学院を設立し、ワシントンDCでも授業を開講していたのです。「ジョージ・ワシントン大学やジョージタウン大学の大学院に入ろうとしたものの、どちらの大学院でも言語学者か、心理学者か、人類学者のどれかを選べと言われました。でも私は3つすべてになりたかったのです!USCは私の学際的研究を受け入れてくれました。私の論文は、192人のアメリカ先住民、アフリカ系・ヒスパニック・アジア系アメリカ人の伝記(ほとんどが自伝)の研究に基づき、効果的な多文化戦略を導くものでした。」と語ります。ジャッキーは1982年に博士号を取得します。
ワシレウスキ博士は、世界中でSIETARの会議に出席し、斎藤先生、コンドン先生と親交を深め、エド・スチュアート先生とも出会いました。ICUではちょうど国際関係学科の開設準備が進められており、コミュニケーション学と言語学が同じ学科に配置されることになりました。コンドン先生はすでに退官し、スチュアート先生も退官間近でした。斎藤美津子先生は1990年にジャッキーをICUに誘致しました。当初は2年の契約でしたが、結果的に18年も教えることとなり、ジャッキーは同僚や学生と共に成長し続けました。
ICUでのキャリアを振り返り、ワシレウスキ先生はこう言います。「教員仲間や学生、そして『日本に住む外国人』という立場から何かを学ばない日はありませんでした。私の授業はインターアクティブで、内省を促すものでした。私は、自分が学生に与えた以上のものを、学生から得たと確信しています。教授会初の女性会長となったことを誇りに思っています。ICUで過ごした最後の数年は、中国や旧ソ連諸国からの留学生をたくさん迎え入れたことが素晴らしい思い出となっています。最後に手がけた「ダイアログ・プロジェクト」は、私のすべての関心事を集約したものでした。このプロジェクトは、学生や市民にコンピューターを使って対話してもらい、複数の文化的背景を持ち、21世紀に生きる人々のためのコミュニケーション戦略を構築するものでした。参加者は、旧ソ連諸国、中国、韓国、日本(沖縄人やアイヌの人々も含む)などあらゆる国の人々でした。対話の目的は討論ではなく、体験を共有することでした。互いの体験を理解し、そのすべてを尊重する世界を作ることを目指したのです。」
ジャッキー・ワシレウスキ先生は2008年に引退し、アメリカに帰国しました。JICUF理事会への参加を求められると、喜んで引き受けました。彼女がICUで培った経験と、異文化間の関係を理解し、改善するために生涯をかけて打ち込んだ研究は、JICUFの仕事のみならず、ICUとJICUFの関係強化に大きく貢献しました。「意見を異にする人々が互いの言い分に耳を傾け、理解する」場を作ろうとする両組織のコミットメントに、彼女は深い価値を認めています。
執筆:アン・ラブ(JICUF職員が翻訳)