JICUFスポットライトードロレス・ローダー理事
JICUFには現在12名の理事がいますが、ドロレス・ローダーは誰よりも長く理事を務めてきました。1960年から61年にかけてICUに留学した彼女を、同僚のアン・ラブがインタビューしました。
ドロレス・キニー・ローダーが最初に日本と「出会った」のは、1953年、ノースウェスト航空(NWA)に勤務していたお父さんが東京に数週間出張したときのことでした。お父さんは素晴らしい写真の数々と、美しい日本人形を持ち帰り、ドロレスは今でもこの人形を大切にしているそうです。1956年、NWA本社で研修を受けていた日本人社員がローダー家に滞在しました。この方とはその後長年にわたって交流があったそうです。
ドロレスはミネソタ州セントポール市にあるマカレスター大学に入学しました。当時、長老派教会がJunior Year Abroad(JYR)プログラムを実施し、アメリカ人学生が世界各地の大学に留学することを奨励していました。このプログラムの背景には、アメリカの若者が他国の若者と深く知り合えば、世界平和につながるという考えがありました。ドロレスはJYRプログラムに申し込み、1960年にICUに派遣されました。
ドロレスは寮に入りましたが(この寮はJICUFの資金で建てられたものでした)、その後吉祥寺の大石さん宅に引っ越しました。長女の祥子(さちこ)さんはICUの卒業生で、次女の敬子(のりこ)さんはICUの4年生になろうとしていました。敬子さんはキャンパスに住みたがっていたので、ドロレスが吉祥寺の敬子さんの部屋に住み、寮費と同じ額を大石家に支払い、代わりに敬子さんが入寮することになったのです。以来、ローダー家と大石家は、親交を深めてきました。どちらの両親も相手の家を訪れ、ドロレスが結婚してからは、自分の家族を連れて吉祥寺の大石家に滞在しました。祥子さんと敬子さん、そして祥子さんの子供達はローダー家を何度も訪れています。祥子さんは5世代のローダー家、ドロレスは4世代の大石家を知っています。
1962年にマカレスター大学を卒業すると、ドロレスはニューヨークに引っ越し、JICUFに勤務しました。「当時は15名ほどのスタッフがいて、活発に活動していました。1962年秋には女性計画委員会の昼食会の企画に携わったことを覚えています。昼食会はコモドア・ホテルで開催され、900人以上が出席しました。翌年1月には、初等教育の学位を取得するため、ミネソタ大学に戻りました。カリフォルニアに住んでいた1980年代初め、第二言語としての英語教授法の資格を取得し、その後数年間、日本人の子供達とそのお母さんたちに英語を教えました。やりがいのある仕事で、日本に訪れると当時の教え子の子供達に会えるんですよ!」とドロレスは語ります。
ドロレスが初めてJICUFの理事に就任したのは1986年のことでした。当時の理事の多くは様々な宗派の宣教師会の代表でした。理事会の年次会合には特別スピーカーが招かれ、ICUでの新しい発展についての報告がありました。1980年代後半、教会による支援が減少すると、JICUFは財政難に陥り、やがてニューヨークのオフィスは閉鎖されました。しかし1997年、ICUによる経済的支援を受けて、再びニューヨークオフィスが開かれ、翌年にはドナルド・オスマー博士とミルドレッド夫人から遺贈を受けることがわかりました。1999年10月、JICUFはICUに資金援助が不要になったことを伝えました。
JICUFでの経験をまとめて、ドロレスは「30年以上にわたってJICUFの発展を見守り、困難な時期に理事長や書記を務めたことを光栄に思っています。」と語ります。長年にわたりJICUFの仕事に関わり、財団だけでなく、ICUに大きく貢献した彼女は、ICUが輩出したいと願う人材の模範です。国境を越えて敬意と友情を育み、平和で公正な世界を実現するための知識と行動を促す教育はICUの献学時の理想であり、ドロレスはまさにその産物といえます。
執筆:アン・ラブ